表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
バハムート宇宙を行く  作者: 珈琲ノミマス
地獄の惑星。バハムートが選ぶ未来

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

528/572

レッドラインへの期待

 そんな穏やかな時間をわずかに破るように、リビングの自動ドアが小さく音を立てて開いた。


「お待たせしました。社長」


 アンジュが姿を見せた。軽やかに歩みを進めながらも、その肩にはかすかな緊張が宿っている。けれど、艦内という空間に馴染んだ柔らかさが同時に漂い、仕事と生活の境を穏やかに繋いでいた。


「大丈夫です」


 クロは静かに答えると、用意していたもう一つのマグカップにコーヒーを注ぎ、ソファーに腰を下ろしたアンジュの前へとそっと置く。湯気とともに立ち上る香ばしい香りが、二人の間の空気をやわらかく包み込む。その湯気はゆるやかに流れ、照明の光を透かして淡く揺らめいた。


 アンジュは軽く一礼してマグカップを手に取り、一口飲む。温かさが喉を通るたびに、張りつめていた空気が少しずつほどけていく。


「ありがとうございます。それで、何かありましたか? レッドラインの学習データでしたら完成しましたが」


 クロはマグカップをテーブルに戻し、首を横に振った。


「これを見てほしいんですが」


 そう言いながら、腰のホルダーから端末を取り出す。ホロディスプレイが静かに展開され、淡い光が部屋を照らした。映し出されたのは、マルティラ軍と黄金の聖神との戦闘映像。戦場の閃光と爆炎が淡く反射し、穏やかなリビングに一瞬だけ緊張の残響を落とす。


「このデータ解析ですか?」


 アンジュが顔を上げる。クロは小さく頷き、ホロディスプレイを閉じるとデータをアンジュの端末へと送信した。


「お願いします。アレクたちと協力してやってください。どれくらいの時間がかかりそうです?」


 クロの声は穏やかだった。だが、その柔らかさの中に、どこかゆったりとした余裕と、確かな信頼が滲んでいた。


 アンジュは端末のデータを流し見ながら、短く考え、すぐに答える。


「この程度なら、明日中には終わりますね」


 クロは別空間からタオルを取り出し、ミルクを飲み終えたクレアの口元をそっと拭った。クレアは目を細め、心地よさそうに尻尾を振る。その小さな仕草を見て、クロの口元に自然と微笑が浮かぶ。


「そうですか。急ぎではないので、休みつつお願いします」


 タオルを別空間に仕舞うと、クロはひと息つき、穏やかな笑みをこぼした。テーブルの上で丸くなったクレアは満足げに喉を鳴らし、しっぽを小さく揺らしている。その柔らかな光景に、アンジュも思わず口元をほころばせた。だが、すぐに彼女の視線は真面目な色を取り戻す。


「レッドラインの教育データは今あります?」


 クロが問うと、アンジュはマグカップを一度テーブルに置いて立ち上がる。


「持ってきます。少しお待ちください」


 アンジュの声が静かに消え、リビングの自動ドアが音もなく閉じた。閉じる瞬間、外の廊下に溶ける足音が遠ざかり、再び室内に穏やかな静寂が戻る。照明の柔らかな光が、テーブルの上のマグカップとクレアの黒い毛並みに淡く反射していた。


「クロ様、レッドラインは学びますかね?」


 クレアが小首を傾げながら問いかけた。その声は素朴で、どこか子供が未知のものに向ける興味を含んでいる。


 クロは返事をせず、しばし視線を上へと向ける。天井を見つめるその瞳は、やがて何層もの隔壁を突き抜け、艦外を漂う巨大な影――ブラックガーディアン、さらにその先にあるレッドラインへと意識を伸ばしていく。


「やってみないと判りませんが、学ばなければ機材を買い、設置するだけです」


 淡々とした声の裏には、わずかな苦笑の気配があった。だが、その視線はやがて鋭さを帯びる。まるで遠くの宇宙空間に浮かぶ巨大機体を睨み据えるような、静かな威圧を含んだ光。その一瞬、クロという少女の内に眠る“バハムート”の気配が、確かに滲んだ。


「ただ、莫大な資金がかかるので……学んでほしいですね」


 その声音は静かでありながら、冷ややかな圧を孕んでいた。言葉というよりも、命令に近い祈り。空気がわずかに震え、クレアの小さな身体がふるりと揺れる。毛並みが逆立ち、尾がぴんと立つ。「強制ではないですからね」と付け足された言葉には、苦笑のような柔らかさが戻っていたが――その直前に放たれた気配の残滓が、なおもリビングの空気を淡く揺らしていた。


 クロはマグカップを手に取り、軽く息を吐いてからコーヒーを一口含む。その香りが緊張の余韻を吸い取り、静けさを取り戻していく。


 ふと窓の外――艦の外壁越しに、レッドラインの巨体がかすかに光を放つ。そのわずかな揺らぎは、気のせいではなかった。まるで、彼女の言葉を理解し恐怖しつつ応えるように、あの巨体が小さく頷いたかのようだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ