レッドラインへの期待
そんな穏やかな時間をわずかに破るように、リビングの自動ドアが小さく音を立てて開いた。
「お待たせしました。社長」
アンジュが姿を見せた。軽やかに歩みを進めながらも、その肩にはかすかな緊張が宿っている。けれど、艦内という空間に馴染んだ柔らかさが同時に漂い、仕事と生活の境を穏やかに繋いでいた。
「大丈夫です」
クロは静かに答えると、用意していたもう一つのマグカップにコーヒーを注ぎ、ソファーに腰を下ろしたアンジュの前へとそっと置く。湯気とともに立ち上る香ばしい香りが、二人の間の空気をやわらかく包み込む。その湯気はゆるやかに流れ、照明の光を透かして淡く揺らめいた。
アンジュは軽く一礼してマグカップを手に取り、一口飲む。温かさが喉を通るたびに、張りつめていた空気が少しずつほどけていく。
「ありがとうございます。それで、何かありましたか? レッドラインの学習データでしたら完成しましたが」
クロはマグカップをテーブルに戻し、首を横に振った。
「これを見てほしいんですが」
そう言いながら、腰のホルダーから端末を取り出す。ホロディスプレイが静かに展開され、淡い光が部屋を照らした。映し出されたのは、マルティラ軍と黄金の聖神との戦闘映像。戦場の閃光と爆炎が淡く反射し、穏やかなリビングに一瞬だけ緊張の残響を落とす。
「このデータ解析ですか?」
アンジュが顔を上げる。クロは小さく頷き、ホロディスプレイを閉じるとデータをアンジュの端末へと送信した。
「お願いします。アレクたちと協力してやってください。どれくらいの時間がかかりそうです?」
クロの声は穏やかだった。だが、その柔らかさの中に、どこかゆったりとした余裕と、確かな信頼が滲んでいた。
アンジュは端末のデータを流し見ながら、短く考え、すぐに答える。
「この程度なら、明日中には終わりますね」
クロは別空間からタオルを取り出し、ミルクを飲み終えたクレアの口元をそっと拭った。クレアは目を細め、心地よさそうに尻尾を振る。その小さな仕草を見て、クロの口元に自然と微笑が浮かぶ。
「そうですか。急ぎではないので、休みつつお願いします」
タオルを別空間に仕舞うと、クロはひと息つき、穏やかな笑みをこぼした。テーブルの上で丸くなったクレアは満足げに喉を鳴らし、しっぽを小さく揺らしている。その柔らかな光景に、アンジュも思わず口元をほころばせた。だが、すぐに彼女の視線は真面目な色を取り戻す。
「レッドラインの教育データは今あります?」
クロが問うと、アンジュはマグカップを一度テーブルに置いて立ち上がる。
「持ってきます。少しお待ちください」
アンジュの声が静かに消え、リビングの自動ドアが音もなく閉じた。閉じる瞬間、外の廊下に溶ける足音が遠ざかり、再び室内に穏やかな静寂が戻る。照明の柔らかな光が、テーブルの上のマグカップとクレアの黒い毛並みに淡く反射していた。
「クロ様、レッドラインは学びますかね?」
クレアが小首を傾げながら問いかけた。その声は素朴で、どこか子供が未知のものに向ける興味を含んでいる。
クロは返事をせず、しばし視線を上へと向ける。天井を見つめるその瞳は、やがて何層もの隔壁を突き抜け、艦外を漂う巨大な影――ブラックガーディアン、さらにその先にあるレッドラインへと意識を伸ばしていく。
「やってみないと判りませんが、学ばなければ機材を買い、設置するだけです」
淡々とした声の裏には、わずかな苦笑の気配があった。だが、その視線はやがて鋭さを帯びる。まるで遠くの宇宙空間に浮かぶ巨大機体を睨み据えるような、静かな威圧を含んだ光。その一瞬、クロという少女の内に眠る“バハムート”の気配が、確かに滲んだ。
「ただ、莫大な資金がかかるので……学んでほしいですね」
その声音は静かでありながら、冷ややかな圧を孕んでいた。言葉というよりも、命令に近い祈り。空気がわずかに震え、クレアの小さな身体がふるりと揺れる。毛並みが逆立ち、尾がぴんと立つ。「強制ではないですからね」と付け足された言葉には、苦笑のような柔らかさが戻っていたが――その直前に放たれた気配の残滓が、なおもリビングの空気を淡く揺らしていた。
クロはマグカップを手に取り、軽く息を吐いてからコーヒーを一口含む。その香りが緊張の余韻を吸い取り、静けさを取り戻していく。
ふと窓の外――艦の外壁越しに、レッドラインの巨体がかすかに光を放つ。そのわずかな揺らぎは、気のせいではなかった。まるで、彼女の言葉を理解し恐怖しつつ応えるように、あの巨体が小さく頷いたかのようだった。




