ミルクと戦略
リビングに入ったクロとクレアを迎えるものは、静まり返った空気だけだった。アンジュの姿はまだない。艦内時計の針が小さく刻む音が、わずかに響いていた。
クロは自然と足をキッチンへと向ける。肩にちょこんと乗ったクレアが首を傾げると、彼女は振り向きもせずに声をかけた。
「何か飲みますか?」
「ミルクがいいです」
「わかりました。先にテーブルで待っていてください」
穏やかに言うと、クロは背後の棚から深皿を取り出した。金属の縁が光を反射し、白い指先に淡い輝きを返す。ドリンクメーカーの柔らかな駆動音が響き、淡い香りを漂わせながらミルクが注がれていく。
リビングに入ると、クロの肩にいたクレアは素直に降りた。短い足でトテトテとテーブルへ向かい、そのまま軽やかに飛び乗ってちょこんと座る。彼女の視線は、キッチンで動くクロの背中をじっと追っていた。その瞳には、どこか安心したような温もりが宿っている。
クロはマグカップを二つ用意し、深皿にミルクを注ぐと、それらをまとめてリビングへ運んだ。
ソファーに腰を下ろすと、目の前のクレアがうれしそうに尻尾を大きく振る。その勢いでマグカップの取っ手が小さく鳴り、クロの唇に柔らかな笑みが浮かんだ。
深皿を差し出すと、クレアは顔を突き出し、ピチャピチャと音を立てながら夢中で舐める。その様子を眺めながら、クロはコーヒーメイカーに手を伸ばした。湯気を立てるブラックをゆっくりと注ぐと、香ばしい香りが室内いっぱいに広がり、わずかに苦い香気が鼻をくすぐる。
マグカップを手に取り、一口。熱が舌を包み、喉を通り抜けていく。その瞬間、肩の力がふっと抜け、静かな息がこぼれた。
「……ふぅ」
向かいのクレアが顔を上げる。口の周りをミルクで白く染め、小さな舌でぺろりと舐め取ると、真剣な表情で問いかけてきた。
「クロ様、明日からはどうするんです?」
クロは少しだけ目を細め、カップの縁に視線を落とした。その横顔は、どこか遠くを見つめているようだった。
「マルティラⅡに降りようかと。とりあえず首都から離れた場所に降りて、地上から首都に向かって移動しようかと思ってます」
「なぜ首都に降りないんです?」
クレアは首をかしげ、小さな耳がぴくりと動いた。クロはマグカップを静かにテーブルに置き、黒く揺れる液面を見つめる。
「ただ、なんとなくです。別に首都でさっさと調査してもいいんですが、すぐに終わりそうなのでのんびりやろうかと」
その声音は淡々としていながらも、どこか柔らかく、遠い余韻を含んでいた。カップの中で黒い液面がわずかに揺れ、室内の照明を映して静かに波打つ。クレアはその反射をじっと見つめ、クロの表情の奥を探るように耳をぴくりと動かした。
「なるほど。黄金の聖神はどうしますか?」
問いかける声には、軽やかさの中にわずかな緊張があった。
クロは一瞬だけ視線を宙に漂わせ、そして穏やかに微笑む。
「それは、メディカルポットの眠り姫の話を聞いてからですね。まずは革命派の動きを各方面から見てからにしようかと。街の様子や行きかう人々の声を聴きながら進んで、インセクトの情報も手に入れば――大儲けです」
淡々と語られたその言葉には、どこか楽しげな響きが混じっていた。クロは軽く肩をすくめ、冗談めかした口調で締めくくる。だがその瞳の奥では、笑みの裏に隠された“観察者”の光が鋭く光っていた。
クレアは深皿から顔を上げ、口の端にミルクの滴を残したまま小首をかしげる。
「なるほど。しかし、クロ様なら革命派の調査後、のんびり街を回ってもいいのでは?」
その声音には、素朴な疑問とわずかな心配が混ざっていた。“のんびり”という言葉が、どうしてもクロには似合わないように思えたのだ。
クロはふふっと小さく笑い、マグカップを手に取る。その指先が白く光を受け、湯気がふわりと立ちのぼる。
「まあ、状況次第ですね。まずは降りられるかの心配もありますし」
「マルティラⅡに降りられないんです?」
クレアの問いに、クロは視線をカップから離し、ゆるやかに顔を上げた。その瞳に、一瞬だけ警戒の影が差す。穏やかな空気がわずかに張り詰め、コーヒーの香りの奥に、鋼の気配が微かに漂った。
「行けますが……邪魔をしに来る者がいるかもしれない。そういうことです」
静かに告げられたその声には、確信にも似た響きがあった。まるで、まだ見ぬ敵の息遣いをすでに感じ取っているかのようだった。
クレアは小さく息を呑み、耳を伏せる。
「インセクトが関わっているのなら……まあ、確実に邪魔しますよね」
クロは小さく頷き、カップを唇に運ぶ。苦味が舌を刺すように広がる中、その瞳はどこか遠くを見ていた。外の宇宙では、船体の外壁に反射する光が流れ、静寂の中で時間だけが緩やかに過ぎていく。
「こちらには大義名分があるので問題ないと思いますが」
そう言って、クロはコーヒーをもう一口飲む。その口元に浮かんだのは、どこか挑むような、不敵な笑みだった。
「妨害するのなら――塵にするだけです」
その言葉は静かでありながら、絶対の力を前提にした断言だった。一瞬、リビングの灯りが彼女の瞳を照らし、その笑みをわずかに際立たせる。それは悪魔にも似た微笑――けれど、クレアにとっては違った。
「さすがです!クロ様!」
尻尾を勢いよく振りながら目を輝かせるクレアにとって、その笑みは畏怖ではなく“誇り”の象徴だった。彼女の目に映るクロは、何者にも屈しない、威厳と美しさを併せ持つ主。静かなリビングには、カップが小さく触れ合う音と、ふたりの温度の違いが心地よく混ざり合っていた。




