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バハムート宇宙を行く  作者: 珈琲ノミマス
地獄の惑星。バハムートが選ぶ未来

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治療と静かな決断

「まあ良いです。見た目には外傷はないようですが……」


 クロは静かに言いながら、傷ついた女性の体を見下ろす。その表情には判断の冷静さと、どこか慎重な気配があった。


「クレア、タオルを取ってください」


 言われるが早いか、クレアはクロの肩から飛び出し、床を蹴るように宙を駆ける。ふわりと浮かぶような動きで備品棚へと到達すると、そこに用意されていた清潔なタオルを器用に咥え、そのまま猛スピードで引き返してきた。


「どうぞ、クロ様」


 クロはそれを受け取り、女性の身体を乱暴にならないよう配慮しながら優しくタオルを巻きつける。そして、すでに準備を整えていたエルデとともに、メディカルポットへと彼女を慎重に寝かせた。


 ポットが静かに駆動を開始する。淡く発光するカバーが閉じ、内部のセンサーが自動的に作動し始める。


 やがて、治療ナノマシンの投与が始まり、装置の各部から短く電子音が鳴る。


「……外傷はないっすね。ただ……体の内側っす。打撲痕と……内臓損傷、あと複数の骨にヒビが入ってるっす。――正直、良く生きてたもんっす」


 端末を睨みながら、エルデが息を呑んで告げる。その声音には、医療担当としての驚きと、わずかな安堵が滲んでいた。


「そうですね。その他には?」


 クロは、破いた宇宙服とヘルメットを丁寧に畳みながら問いかける。同時に、メディカルポット室の扉を開き、アレクに合図を送る。


 アレクはすぐに部屋へ入り、エルデの後ろに並ぶとモニターを覗き込んだ。


「……頭にも衝撃の痕跡がありますね。恐らく、戦闘中にどこかへ打ち付けられたんだと思います」


「だそうです。アレク、あなたの見立ては?」


 クロの言葉に、アレクはモニターを指先でなぞり、治療ログとスキャンデータを即座に解析する。


「緊急時用のナノマシンはすでに投与されていて、反応も正常です。状態自体は重症ですが、命に別状はありません。このままポット内でのナノマシン治療を続ければ、時間はかかりますが完治は可能だと思います」


 その報告に、クロは短く頷く。


 だが、アレクは少しだけ間を置いて、視線をクロへと向け直した。


「……ただ、もっと早く回復させる手段もあります。“癒しの腕輪”を使えば、回復までの時間はおよそ四分の一以下に短縮されます」


 そう言うアレクの声は慎重で、どこか確認を求めるような色があった。


 クロは、その提案に対して一切の逡巡を見せず、はっきりと答えた。


「使いません。この方は私の身内ではありませんので――使う必要はないです」


 その声音は柔らかくも、明確な線を引く冷静さがあった。私情ではなく、理に基づいた判断。特別な措置は限られた者のために――クロの中には、そんな確かな規律が根づいていた。


「……暫くは、目を覚まさないんですか?」


 淡々とした口調ながら、その問いには微かな感情の揺らぎが滲んでいた。目を覚まさない命を前にしたとき、判断とは常に静かな重みを帯びる。それが敵であれ、味方であれ、ただの通りすがりであれ――命の輪郭は、曖昧で、脆くて、時に残酷だ。


 アレクは短く頷き、変わらぬ落ち着いた声音で答えた。


「はい。ナノマシン治療中は、患者の意識は一時的に制御されます。自発的に動けば治癒中の部位を損なう可能性が高いですからね。――目を覚ます頃には、ほとんど完治しているはずです」


 クロは静かに息を吸い込み、そしてふっと表情を切り替えるように背筋を伸ばす。感情の余韻を振り切るように、冷静な口調で言葉を継いだ。


「……では、とりあえずエルデとアレクは訓練に戻ってください。それと――アンジュに、リビングに来るよう伝えておいてください」


「了解です、社長」


 即座に応じたアレクは、手際よくポケットから端末を取り出し、数回タップを重ねて通信設定を済ませる。


「エルデさんは、先に訓練室に行っててください」


「うっす! 先に行ってるっす!」


 元気よく返したエルデは、勢いよく床を蹴って部屋を出ていく。その背中を見送るクロは、ふと小さく呟くようにアレクへ問いかけた。


「……元ハンターの目から見て、エルデの成長具合はどうです?」


 問いかけられたアレクは、端末操作を終えてから短く息をつき、真剣な表情で返す。


「体力や反応速度は、着実に伸びています。戦闘訓練の基礎はちゃんと身に付き始めてますよ。ただ、まだ始めて間もないですし……これからですね。伸び代はあると思います」


 そこまで言ってから、アレクはほんの一瞬言い淀んだ。だが、何かを振り切るように、意を決して口を開く。


「――それと……これは戦闘とは直接関係ないんですが……」


 クロが小さく首を傾げる。その仕草に、肩の上にいたクレアも同じように小さく首をひねる。


「もう少し……身だしなみと、最低限の生活習慣を身につけてほしいですね」


「……身だしなみ? 片付け?」


 クロの問い返しに、アレクは気まずそうに頷いた。


「はい。あの……女性として、もう少し自分の格好とか動きとか、気にしてくれた方が……というか、無防備すぎるんです。こっちが目のやり場に困るというか、手に痛みが走ることが何度か……」


「……あ~……」


 クロが少し困ったように目を伏せると、クレアは肩の上でわずかに首を横に振る。


「それと、片付けもです。タオルとか……飲みかけのジュースとか……食べかけのお菓子とか……あちこちにポンポン投げっぱなしで。自分たちもあまり人のことは言えないんですが、何度か注意はしたんです。――でも、あれは社長からきつく言ってもらった方が……」


 アレクの言葉の最後には、日々の小さな疲労がにじんでいた。けれど、その声音に怒りはなかった。どこか諦めにも似た――だが、根底には親しみのある、“同居人としての苦笑”が、確かに宿っていた。


 クロは唇を引き結び、しばし考え込むように視線を落とす。生活感の緩さ。それは、まだ幼さが残る証であり、同時に――この艦の中でエルデが“安心している”という、裏返しの証明でもあった。


 だが同時に、それは彼女が過ごしてきた環境――スラムでの過酷な日々の中では、そもそも意識されることのなかった領域だった。「気にする必要がなかったこと」が、いま“共同生活の課題”として浮き彫りになっている。


「……わかりました。私から話しておきます」


 静かに、けれどきっぱりと返されたその一言には、クロらしい冷静な責任感と、どこか温もりを帯びた響きが滲んでいた。


 アレクは、ようやく肩の力を抜き、軽く頭を下げる。


「ありがとうございます、社長。エルデさん、真面目な子なのは確かです。ちゃんと伸びてるのも分かってます。――だからこそ、変なところでつまずかせたくなくて」


 その言葉に、クロもわずかに目を細める。


「……それも、“訓練の一環”ということですね」


「ええ。生き残るためには、身の回りの整理もまた、必要な技術ですから」


 アレクは真顔のまま、けれどわずかに口元を引き締めて一歩下がる。そのまま端末に視線を落とすと、アンジュからの返信がすでに届いていた。


「アンジュはリビングにすぐ向かうそうです」


「わかりました」


 クロは軽く頷きながら、自然と視線をメディカルポットへと戻した。


 カバーが完全に閉じられると、外界と切り離された静けさが、ポットの内側に満ちていく。その閉ざされた空間で、生命維持と修復を託された彼女は、ただ静かに眠り続けていた。


 今はまだ、言葉も記憶も語らぬ存在。彼女がどんな想いを抱えているのか――それを知る日は、もう少しだけ先になるだろう。


 室内には、ナノマシンの作動音だけが、小さく、正確な律動を刻んでいた。

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