静かな休暇と騒がしい余波
朝。クロは、休暇を言い渡されたその日、いつもより少し遅めに目を覚ました。ホテルのシャワールームで湯を浴び、身支度を整えると、そのままロビーへと降りていく。
エントランスを出ようとしたところで、ロビーのカウンターから声が掛かった。
「クロ様。おはようございます」
声の主は、初日に手続きを手伝ってくれたホテルマンだった。変わらぬ丁寧な物腰で、深く一礼する。
「おはようございます。端末の操作、教えてくださってありがとうございました」
クロもまた、礼儀正しく頭を下げる。
「いえ、とんでもございません。お役に立てたのなら何よりです」
ホテルマンは控えめに微笑みながら、すぐに表情を改めた。
「もしよろしければ、少しだけお時間を頂けますでしょうか。ご迷惑にはいたしません」
「はい」
クロは迷わず、静かに頷いた。
「ありがとうございます。お話は、ご滞在についてでございます」
ホテルマンは声の調子を落とし、丁寧に言葉を継ぐ。
「まもなくご宿泊が一週間を迎えますが……ご延長のご予定はございますでしょうか?」
クロは軽くお辞儀をし、淡々と答えた。
「すみません。この一週間で大丈夫です」
「かしこまりました。それでは、残りの期間もどうぞよろしくお願いいたします」
ホテルマンは深く一礼し、言葉に微笑みを添える。
「お時間をいただき、ありがとうございました。……素敵な一日をお過ごしくださいませ」
クロは小さく頷きながら、玄関に向かって足を進める。
「行ってきます」
ホテルを出たクロは、いつものようにギルドへ向かうことなく、別の通りを歩き出した。今日は休み。予定していたのは、グレゴに紹介された武器屋――『ロック・ボム』への訪問だった。
だが、そこまでの道順や、店の特徴に関する知識はほとんどない。クロは端末に届いていた地図を見たが、現地の雰囲気や傾向までは読み取れなかった。
(……だったら、詳しい人に聞いた方が早い)
クロが足を向けたのは、アヤコがいるあのジャンクショップだった。
「……さて、武器か」
ぽつりと呟く。
「別に、今すぐ必要ってわけじゃないんだけど……スライムタッカーみたいに面白いのがあれば、見てみたいし」
クロは、淡々とした口調でそう呟く。けれどその声の端には、わずかに期待が混じっていた。
気がつけば、足取りは軽くなっていた。街の雑踏の中を、目的地へ向けて歩を進めていく。
前から、後ろから、人々の歩く音が重なって響いてくる。仕事へ向かう者。子どもと手をつなぐ親。寄り添い合って笑うカップル。そこには、コロニーの日常が流れていた。
その中で――ひとりだけ、明らかに“異なる意思”を持って歩く男がいた。
空気に紛れることもなく、明確な“狙い”を帯びた歩調。視線は定まっており、すれ違う瞬間を狙っているのは明らかだった。
そして、すれ違いざま。男は、わざとらしいほど大きな動きで、クロの肩にぶつかってきた。
――ぐらり、と体が揺れたのは、男の方だった。
クロは、一切動かなかった。まるで壁のように、微塵も反応を見せない。
ぶつかって来た男は、昨日ギルドでクロの発言を苦々しく聞いていたハンターのひとりだった。子どもに説教されたような屈辱。少しでも鬱憤を晴らそうと、わざとぶつかって転ばせてやろうと考えた――そのつもりだった。
だが、結果は真逆だった。
ぶつかったのは自分の方なのに、まるで壁にでも当たったかのような衝撃。
「……ッ」
男の方がよろめき、体勢を崩した。
(はっ? なんで……!? ありえねぇだろ……!)
予想外の反動に混乱する間もなく、周囲の視線が彼に集まる。ぶつけたはずの少女は――まったく動じていなかった。
クロは歩みを止めず、ただ一度だけ背後に視線を向ける。その黒い瞳が、無言のまま男の姿を捉えた。
言葉もなく、感情も浮かべず。けれど、その一瞥だけで、男の背筋に冷たいものが走った。
心臓の奥がきゅっと縮むような感覚。まるで“何か”に見下ろされたような錯覚。
だが、クロにとってこの展開は、特別な感情ではなかった。
「……漫画みたいな展開だな」
ぽつりと、小さく呟く。それは事実を述べただけの感想。皮肉でもなく、嘲りでもなく。ただの観察者の声だった。
男は顔を赤くし、唇を震わせる。
「……覚えてろよ!」
怒鳴るように吐き捨てたその声は、呟きにしては大きすぎた。けれど――クロの耳には届いていなかった。
少女はすでに、前だけを見て歩いていた。