静かなる侵入者と、届かぬ苦言
ゴーグルに階級章のデータが送られてきたクロは、わずかに息を吐いた。笑いを堪えるように肩が揺れ、浮遊する身体がほんの僅かに姿勢を崩す。
そのとき、通信が再び届いた。
『クロねぇ、ふふっ……その中尉の階級章のおっさんがいたっす。ドローンが通ってきたルートを表示するっすから……』
堪えきれない笑いが、語尾にちらちらと滲んでいた。
『迷子にならないように、くれぐれも気をつけるっすよ。ぷぷっ……』
クロはわずかに苦笑しながら、浮かぶ経路表示に視線を合わせる。ルートマーカーが通路の角を指し示し、誘導灯のように彼女の進むべき方向を案内していた。
無言のまま、クロは壁沿いに身体を滑らせる。誰にも干渉せず、どの視線にも引っかからず――ただ、空気の一部のように。
ひとつ角を曲がるたび、クロの姿勢がわずかに傾き、足先を制御するように向きを調整する。歩く兵士たちのすぐそばをすり抜けるたびに、呼吸を抑え、浮遊の軌道を緩やかに調整した。
実体は消えていない。触れれば気づかれる。だからこそ、見えないことに甘えず、細心の注意を払う。
誰の目にも映らないその姿が、ただ静かに、艦内の通路を流れていく。
「……はいはい、ありがとうございます」
皮肉めいた一言を口にしつつ、クロはゴーグルのナビに従って再び身体を滑らせる。光も音も残さず、無重力下を這うように進み、分岐を曲がり、目的地を目指していく。
そしてやがて――前方に、ひときわ厳重な扉が現れた。
識別ナンバー、出入りの制限マーク、そして扉の上部に浮かぶホログラム。
《指令室》
クロのゴーグルにも、その表示が一瞬遅れて重なった。
「……指令室ですね」
通信を再接続すると、すぐにエルデの声が応じる。
『クロねぇ、ついでにその中にいるドローン、一機回収してほしいっす』
「わかりました」
短く答えると、クロは扉の前に浮遊したまま静止する。
センサーに反応が現れ、中から誰かが近づいてくる気配が伝わる。クロは自身の姿勢を微調整し、浮遊したまま扉の開口タイミングを見極めた。
シュッ――という静かな音とともに、扉が左右に開く。
その瞬間、クロの身体は空気に滑り込むように横たわり、すれ違いざまに出てきた兵士の頭上をかすめて通過した。わずかでも触れればアウト――その緊張の中、クロは光すら掠めないまま室内へと侵入する。
わずかにずれていたら、肩が触れていた――クロはそう思いながら、気配すら残さずその場を抜けた。
指令室の内部は、幾重ものホロディスプレイが宙に浮かび、戦況図・通信ログ・命令文書などが絶え間なく表示されている。その間を制服姿の兵士たちが縫うように歩き、誰もが無言で、自分のタスクをこなしていた。
クロは無言のまま、ホロディスプレイの配置を確認しつつ移動する。浮遊するようにゆっくりと進みながら、ひとつひとつの画面に目を通し、何か“引っかかる”情報を探す。
その中の一枚――クロの視界に、特別な指令が浮かび上がった。
(……近々、宙域奪還のため、前線部隊を再編成予定。本基地より支援部隊を選抜し、増援……)
ディスプレイに表示された作戦概要は、機密指定がかかるはずのものだった。だが、まさかこの場に誰かが“見ている”とは思いもしないのだろう。表示されたままの画面は、誰の警戒も受けぬまま、透明のクロの目にさらされている。
そしてその情報は、クロだけのものではなかった。ドローンを通して、遠隔から観測しているエルデもまた、同じ映像を目にしている。
「司令、いかがいたしますか」
報告に従うように、隣の兵士が問いかけた。
ディスプレイの前に立つ初老の司令官は、眉間に深く皺を寄せ、しばし無言のまま指先を宙に浮かべたまま停止していた。そして、溜息を一つ――それも、あまりにも重い溜息を吐き出す。
「……いかがも何も、送るしかあるまい。運がいいのか悪いのか……昨日、その目途が立ってしまったからな」
声には諦めとも皮肉ともつかぬ苦味が滲む。
隣に立つ副官らしき男もまた、深く溜息をつき、静かに呟いた。
「確か……ハンター、でしたか。名は――クロ・レッドラインとかいう」
副官の口から出たその名に、司令は重く頷く。ホロディスプレイの光が、その目元の皺をより深く照らし出していた。
「そうだ。忌々しいことにな……」
低く唸るような声音で、司令は言葉を継ぐ。
「我々の戦艦と機動兵器に関わらず、海賊に奪われた時点で“国家の資産”として没収、再編すべきだった。だが――相手が悪かった」
静かな怒りを含んだ口調だったが、そこには憤りよりも無力さが滲んでいた。
「本来ならば、我々が動き、正規手続きで取り戻すべきだったものだ。それをハンターが“対応”し、“結果”を出してしまっている。あれは……手を出す前に我々が動いていれば、まだ“軍の責務”として示せたはずだった。――悔しいが、彼らの方が“任務を果たした”」
腕を組んだまま、司令は顔をわずかに傾ける。視線はディスプレイに向けられているが、そこにあるのは情報ではなく、己への苛立ちだった。
「しかもその過程で手に入れたとなれば、少なくとも“所有権”は彼らにある。法的にも、事実としても。……いくら内戦中とはいえ、我々が何を言おうと始まらない。向こうからすれば、“対応しなかった軍”が文句を言う資格はない。正論だ。放置していた責任は、我々にある……」
司令の口調は冷静だったが、その奥には苦さがあった。
「だから、結局は――“買い戻した”。大金を払って、な……」
ホロディスプレイの前で立ち尽くしながら、司令はひときわ重い息を吐く。その声音には、敗北を悟った者の疲れが色濃く混じっていた。
「だが……おかげで“増援”は送れる。こちらからも部隊を出せる。……本当は、そんなもの送りたくはないのだがな」
その言葉には、誰にも届かぬ悔しさと、そして兵を出す者としての矛盾が含まれていた。
副官は黙ってその背を見つめ、やがて呟いた。
「……いったい、何のための内戦なんでしょうな」
言葉が落ちるのと同時に、指令室の空気が微かに揺れた気がした。司令は小さく、押し殺すように笑みを浮かべ、頭を振った。
「異議を唱えた途端、外縁の宇宙ステーションに左遷され……」
言葉を継ぐうちに、その声は低く、深く沈んでいった。
「本来、我々は国民を守る存在だった。だが今、我々が銃口を向けているのは――その国民だ。……殺し合いだぞ」
手にした権限も、過去の栄光も、今は遠い過去のもの。司令の声は、誰に向けられるでもなく、ただ空に向けて零れ落ちる。
「どこで間違えた……どこで、こんな未来を選んだんだ……」
その呟きは、さまざまな音が交錯する指令室の中で、まるで音の波に飲まれるようにかき消されていった。
だが――
クロの耳には、その一語一句が鮮明に、そして皮肉めいて響いていた。
(……どうやら、まともな人物のようだな。忌々しくてすまんな)
心の中でそう返しながら、クロは再びホロディスプレイに視線を戻す。
そこには、新たな情報が浮かび上がっていた。
《目標:改良型中継基地》
《位置:奪還された小惑星帯》
《対象:『黄金の聖神』》
そのホロディスプレイの表示を見た瞬間、司令が低く、誰にともなく呟いた。
「今さら取り戻しても……使わんだろうに……」
ぽつりと零されたその一言は、ただ静かだった。だがその静けさは、場の空気を凍らせるほどに重い。
誰もが聞いていた。だが――その言葉に、異を唱える者は誰ひとりとしていなかった。
指令室に満ちるのは、ただ沈黙と機器の駆動音だけ。冷たい光がホロ表示の縁を静かに照らし、浮かび上がる『黄金の聖神』の文字列だけが、重く、そこに残っていた。
おかげさまで、第500エピソードまで執筆することができました。
ここまで続けてこられたのは、いつも読んでくださっている皆さまのおかげです。
本当にありがとうございます。
誤字や脱字、そしてまだまだ拙い文章も多い中、温かく見守っていただき心より感謝申し上げます。
少し区切りが悪いところではありますが、話数的にちょうどキリが良いので、少しお休みをいただこうと思います。
来週の月曜日より更新を再開いたしますので、どうぞよろしくお願いいたします。
これからも、クロたちの物語を温かく見守っていただければ嬉しいです。




