沈黙に差す声と、動き出す群像
ギルドまでの道のりを、クロは徒歩で戻った。コロニーの景色を眺めながら、気づけば数時間が過ぎていた。空は既に夕暮れに染まり、街灯がひとつ、またひとつと灯り始めている。
受付に戻ったクロの姿を見て、グレゴの眉間に深い皺が刻まれた。
「……で。歩いて帰って来たと?」
険しい視線で睨みながら、呆れを隠さずに問いかける。
「はい。少し驚きました。まだ知らない店やレジャー施設も多くて……意外と充実してるんですね」
クロの返答は、淡々としていた。疲労の色もなく、まるで探索でもしてきたかのような調子。
グレゴの表情が、さらに渋くなる。
「お前、タクシーやバス、それに電車ってもんは知ってるのか?」
グレゴが、重く低い声で問いかける。眉間の皺はもはや刻み込まれた彫刻のようだった。
「はい。知っています」
クロは即答した。表情も変わらず、声の調子すら一定のまま。
「……じゃあ聞くが、迷子になってたわけじゃないよな?」
「…………いえ」
間が空いた。クロの目がわずかに泳ぎ、言葉が遅れたその瞬間――
「その間はなんだッ!」
グレゴの怒鳴り声が、ギルドのカウンターに響き渡った。
「……地図さえ見れば、わかります」
クロが淡々と答える。まるで当然のことのように。
「見てたのか?」
グレゴが鋭く問い返す。
「――見てません」
一拍の間を置いて、平然としたままの返答。
「だろうよッ! ったく……もういい!」
グレゴは頭を抱え、深くため息を吐いた。
「……心配して損したわ!」
ぼやくような声には、怒りよりも疲労と、少しばかりの安心が滲んでいた。
「……心配してくれてたんですか?」
クロが、首をかしげるように問いかけた。彼女にとって、報告が済んでいればそれ以上の心配は不要――そう思っていた。
だが実際には、違った。現場からの通信が終わった後、何時間経っても戻らないクロを案じて、ギルド内では「何かあったのでは」と不安の声が上がっていた。特に受付周辺は、妙な緊張感すら漂っていたという。
「当たり前だ。……お前に貸してるスライムタッカーの返却もあるしな」
グレゴはぶっきらぼうにそう言って、視線をそらした。だがその口ぶりには、ほんのわずかに――安堵の色が滲んでいた。
「そうでした。これ、お返しします」
クロは思い出したようにジャケットをまさぐり、スライムタッカーと未使用のカートリッジを差し出す。
グレゴはそれを受け取りながら、深々とため息をついた。
「こいつ……ほんとに俺の心配、わかってねぇな……」
ぼやくように呟いてから、言葉を切り替える。
「……買うか?」
どうせ隠しきれないと察したのか、もう照れ隠しを投げ捨てた口調だった。
「買いたいですが、今すぐ必要ではありませんし。いずれ改造したいので、後でもいいかなと」
クロはあっさりと返し、続けて問いかける。
「それより、他に面白い武器のカタログがあれば、そっちが見たいです」
「……改造って、またシゲに何か頼むつもりか」
グレゴはタッカーとカートリッジを受け取って箱に戻し、近くの職員に手渡しながら、眉間を引きつらせて訊いた。
「はい。使ってみたんですけど、少し使い勝手が悪かったのと……重さも気になりまして」
「小型だぞ、あれ。重いか?」
「服が重くなるのが嫌なんです。それに、スライムの硬化速度は優秀ですが、もう少し自由に操作できたらと思いまして」
クロの理路整然とした要望に、グレゴは顎に手をやりつつ考え込む。
(……現場の声を反映するにはいい機会か。だが、こいつの感覚は常識外れなんだよな。アヤコちゃんやシゲに迷惑が……いや、シゲならまあいいか)
「……シゲに言え。うまくやれば、多少はマシな物になるかもしれん」
それでも、しっかり釘を刺す。
「ただし、違法な改造はやめとけよ。ギルドの許可が降りる範囲でな」
「わかりました。……では、報酬の件ですが」
クロが淡々と切り出すと、グレゴは手元の作業を止めて顔を上げた。
「ちょっと待て。今回の件は、もともと単なる調査依頼だったが……途中から話が変わった。――人身誘拐まで絡んでいたからな」
低く抑えた声で、だが誠実に言葉を継ぐ。
「もしギルドに正式な依頼として登録されていた案件と重なっていれば、その分の報酬も上乗せできる」
一拍置き、帳簿の端を指で軽く叩いた。
「……そうだな。一日、時間をくれ。精算はきっちりして渡す」
「わかりました。お願いします」
クロは静かに頷き、軽くお辞儀をした。
「助かる。武器のカタログは送っておくが、実物も見た方が早い」
そう言って、グレゴが端末を操作する。直後、クロの端末に通知音が鳴った。画面を確認すると、地図データと共に一つの店の名前が表示されている。
――『ロック・ボム』
「明日は休みにしてそこに行ってみろ。いろいろと面白いものが見られるはずだ」
「……休んでも、いいんですか?」
クロが小さく問い返す。どこか意外そうに。
「むしろ休め。まだ十分な報酬もあるはずだしな。働き詰めは――体にも、成長にもよくない」
グレゴの言葉には、ぶっきらぼうな響きの中に、確かな気遣いが滲んでいた。
「わかりました。……そうですね。あそこにずっと休んでる人たちが山ほどいますし、一日くらい、私が休んでもいいですよね」
クロは、いつもの調子でさらりと答える。けれど、その一言は――背後で酒をあおり始めていたハンターたちの耳にも、はっきりと届いていた。
「その分、彼らが依頼をこなしてくれますし」
店内の空気が、ほんのわずかに――だが確かに、重たくなる。
視線を向けてくる者、目をそらす者、何も聞かなかったふりをして酒をあおる者。反応は様々だったが、誰ひとりとして口を開かなかった。
クロは数歩、ギルドホールの中央に歩みを進めながら振り返る。
「……え? 何も言わないんですか?」
無垢な声音のまま、さらなる一言が静かに投げかけられる。
「――肯定と受け止めます。先輩がた、依頼。お願いします」
そう言って、クロは一礼し、そのままギルドを後にした。
彼女の背中が見えなくなった頃、カウンターの奥ではグレゴが大きくため息をついていた。やれやれ、といった顔をしながらも、その目はどこか満足げだった。
(……よく言った)
口には出さずとも、心の中では小さく喝采を送っていた。誰も言えなかったことを、当たり前のように言ってのける。その正しさと怖さを、グレゴは知っていた。
だが――静けさは、長くはもたなかった。
クロの姿が完全に見えなくなったのを確認するかのように、ぽつぽつと声が漏れ始める。
「……ったく、低ランクのくせに」
「子どもが調子に乗りやがって」
「俺たちがどれだけ裏で苦労してると思ってんだ」
「たかが数件こなしたくらいで、偉そうに……!」
怒りとも苛立ちともつかない、不満のざわめきが、ギルド内にじわじわと広がっていく。クロの言葉は、意図せず火種になりかけていた。
しかし、そんな火種を消し去る様に、静かな声が響く。
「……言われても、仕方がないんじゃないかしら」
その声に、ざわめきが一瞬止まる。視線が階段へと向けられた。
そこには、ジンがいた。整ったスーツに身を包み、ゆっくりと階段を下りながら言葉を続ける。
「貴方たち以外のハンターは、普通に依頼をこなしてるのよ」
場が凍る。
「ここにいるメンツ――一ヶ月以上、依頼に出ていないじゃない。……正直、クロの言葉は助かったわ。私たちが言えないことを、代わりに言ってくれたもの」
ジンの口調は柔らかい。けれど、そこにあるのは紛れもない事実だった。誰も反論できなかった。目を逸らす者、口を噤む者、椅子をきしませるだけの者。だが、ジンはさらに追い打ちをかける。
「――そういえば、皆は知ってるかしら?」
彼女は一段、階段を下りるごとに、ゆっくりと笑みを深めていく。
「この支部のギルドマスター。来週、帰ってくるそうよ」
誰かが息をのむ音がした。
「留守の間の様子を“詳しく”教えてほしいって、言われてるんだけど……」
一拍の間。
そして――ジンは、穏やかに微笑んだ。
「……貴方たち、本気で殺されたいの?」
重たい沈黙が、場を支配する。
だが、次の瞬間――ジンはふっと笑って肩をすくめた。
「な〜んてね。殺しはしないわよ。……ただ、降格や、最悪――資格剥奪は、あるかもしれないけどね」
場の空気がざわつく中、ジンはそのままカウンターに歩み寄り、グレゴの脇に片肘を預けるようにして身を傾けた。
「……そうでしょ、あなた?」
その問いかけに、グレゴは短く答える。
「ああ。――おまえら、働け」
美魔女と猛獣、二つの視線に射抜かれたハンターたちは、誰からともなく立ち上がり始めた。酒を放り出し、各々の端末に手を伸ばして依頼検索を始める姿が次々に現れる。
その光景を横目に、グレゴはぽつりと漏らす。
「……すまんな。ヘイトを買わせてしまって」
ジンは静かに首を振る。そして、そっとその肩に置かれた手に、自らの手を重ねる。
「気にしないで。未来のエースを守るためよ」
柔らかな微笑みを浮かべて、声を落とす。
「それに――クロから彼らを守るためでもあるしね」
その一言に、グレゴは一瞬間を置いてから、ふっと息を吐いた。
「……確かに」
短い言葉と共に、笑みが零れた。