シロという名の白い影
コロニーの中を歩くという行為が、これほど面白いものだとは思わなかった。
クロは足を進めながら、密かにそう感じていた。人工的に作られた空間なのに、整然とした景観、遠くまで連なる住居ブロック、頭上にゆっくりと動く地平線――すべてが計算された“回転”の中に在るという不思議。まるで自分が、この巨大構造体の中心を動かしているかのような錯覚すら覚える。
ギルドのあるエリアは、もうすでに遠く上空に見え始めていた。歩いてきた道のりを思い返すたびに、クロは思う。――ああ、歩いて正解だったな。
そんな気持ちを胸に、クロは14地区の入口ゲートを通過し、居住区へと入っていった。住人たちの暮らしの気配が感じられる、落ち着いた住宅街。無人の監視ドローンが滑るように巡回しており、清潔に保たれた道路と植え込みが、静かな生活の空気を伝えてくる。
やがて、目的地となる一軒の家の前で足を止める。
「チャイムか……ここはあまり進化してないのかな」
どこか懐かしさすら感じさせるその装置を見て、クロは小さく呟く。
指先でボタンを押すと、電子音が鳴り響いた。しばらくして、インターホンからくぐもった声が届く。
『……どちら様ですか?』
声にはわずかな警戒心が含まれていた。警戒すべき存在が多いこの世界では、それが当然なのかもしれない。
「ギルドから依頼を確認して来ました。クロです。こちらがギルドデータになります」
クロはそう言って端末を起動し、ホログラムで自分の登録情報を表示。それをチャイム上部のカメラに向けて提示する。
数秒の沈黙ののち、先ほどとは少しだけ柔らかくなった声が返ってきた。
『……ありがとうございます。ええと、その……チャイムの下に読み取りのスキャンがありますので、そちらにかざしていただけますか?』
「了解です」
クロは静かにそう返し、指示された読み取り装置に端末をかざす。その一連の動作は無駄がなく、滑らかだった。警戒される理由など最初からなかったかのように、淡々と。
『ありがとうございます。確認しましたので、お入りください』
インターホン越しの声が柔らかくなった直後、門扉が自動で開く。
クロは一歩、そしてもう一歩と敷地内へ足を踏み入れる。玄関まで進み、ドアに手をかけると、それも自動で開いた。
「こんにちは。ギルドから来ました、クロです」
そう挨拶すると、すぐ横の部屋の引き戸が静かに開いた。
姿を現したのは、落ち着いた雰囲気を纏った若い女性だった。年の頃は二十代半ばだろうか。優しげな笑みを浮かべながら一礼する。
「ありがとう。私が依頼人のハナミです。どうぞ、こちらへ」
ハナミに導かれ、クロは部屋の中へ。案内されたのは、思いがけず“畳”の敷かれた和風の居間だった。(……畳。こっちの世界にも、こういうものが残ってるんだ)
どこか懐かしさを感じながら、クロは静かに腰を下ろす。
「依頼内容の猫探しについて、確認してもよろしいですか? たとえば、位置情報のタグなどは……」
「はい、埋め込み式のチップを体内に入れてあります。けれど……」
ハナミは言いながら、立ち上がって台所へと向かう。数十秒後、湯気の立つお茶を盆に乗せて戻ってきた。
クロの前に湯のみを置くと、柔らかな声で続ける。
「先日、チップの信号が反応した場所へ行ってみたんです。でも、そこには猫の姿がなくて……」
「いただきます」
クロは軽く会釈をして湯のみを手に取り、一口飲む。温かさが喉をすっと通っていく。
「今も、その場所から信号は出続けているんですか?」
「はい。動いてはいないんですが……なぜか、そこに“いない”んです。何度も確認しましたが、どうしても」
ハナミの表情には、困惑と心配が入り混じっていた。
「確認ですが、その地点の“下”は調べられましたか?」
クロの問いに、ハナミは一瞬だけ目を伏せてから、静かに首を振った。
「はい、見ました。位置データでは確かに地上を指していたので、すぐに周囲を探したんです。その下には農業プラントがあるんですが、施設の担当者の方にも確認しました。猫が入り込めるような隙間はないと断言されて……私自身も中を見させてもらいましたが、やはり見つかりませんでした」
語尾がかすかに震えていた。困惑と、焦りと、何より“見つからない”ことへの不安が、にじんでいる。
クロは少しだけ視線を細めると、さらに訊ねた。
「ちなみに……体内チップは、何者かに取り出されるような大きさですか?」
「無理です。とても小さなものですから。猫の体に負担がかからないよう、特殊な方法で埋め込まれてます。取り出すには専用の機器が必要ですし、本人が生きていないと反応もしないと聞いてます」
その言葉に、クロは短く頷いた。
「わかりました。お手数ですが、現在の位置データを送っていただけますか?」
「はい、今すぐ……お願いします。うちの子……シロちゃんを、どうか見つけてあげてください」
ハナミの声には、心からの願いがこもっていた。