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バハムート宇宙を行く  作者: 珈琲ノミマス
地獄の惑星。バハムートが選ぶ未来

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無音の迷路

 エアロックを抜け、クロとクレアは静かに身を翻した。透明化状態のふたりは、まるで影も音も持たない幻のように――重力のない空間をすり抜けるように分かれていく。


「クレアは好きに動いて、とにかく会話を拾ってきてください。内容の判断は任せます」


「はい、クロ様」


 クレアは応えると、ふわりと身体を浮かせて前方へと加速した。重力のない通路を、地を蹴るような姿勢で駆ける。足元には見えない床が存在するかのように、壁沿いを滑るように進み、軽やかに曲がっていく。


 クレアの姿は壁面の照明すら掠めることなく、ただ空間の一部として溶け込んでいった。


 クロはその背中を感じつつ、ゴーグルの庇に指を添える。指先のタッチに反応して、ゴーグル内に映像ウィンドウが展開され、エルデの顔が映る。


「飛ばしてください」


『了解っす』


 エルデの声と同時に、ゴーグル内のドローンアイコンが点滅を始める。起動信号の受信を確認すると、次の瞬間――小型のドローンが、別空間から転送されてクロの前に浮かび上がった。


 その機体は音もなく姿勢を制御しながら、空中に静かに静止した。


「エルデ、貴方は見つからないよう気をつけて動いてください。カメラや兵士に注意を」


『了解っす。難しそうなら――引き上げるでいいっすか?』


「構いません。その際は、教えてください。取りに行きます」


 返答と共に、ドローンが静かに浮遊を開始する。プロペラ音も排熱音もない完全静音の機体が、通路の暗がりへと消えていく。


 クロは姿勢を低くして無重力下に浮かび、壁面に軽く手を当てた。指先に伝わる冷たい金属の感触を頼りに、体勢を安定させると、そのままふわりと身体を滑らせていく。


 動きに対して反発も抵抗もない。まるで空間そのものが、彼女を静かに受け入れているかのようだった。


 期待に胸を膨らませながら、クロは独りごちる。


「――さて、何か面白い場所があるといいが……」


 その小さな声は、確かに空気を震わせた。だが返す声も、気配もない。艦内の空気はある。音は届く。だが彼女の存在は、あまりにも薄く、世界に溶け込んでいた。


 クロは天井近くの通路を選び、壁に沿うように浮かんでいく。重力がないとはいえ、彼女の動きは“歩く”という感覚を捨てていない。足の裏に“地”を感じるように姿勢を制御し、静かに、滑らかに――それでいて確かな足取りで進んでいく。


 下の通路を、二人の兵士が並んで歩いていた。


「昨日のボートレース、絶対一号艇が行ったと思ったのに……」


「なんだよ、お前またエアボートに負けたのかよ……」


 たわいもない話が、ほんの少し弾んだ調子で響いてくる。通路に充満する人工の静けさの中で、その声だけが生の人間の証だった。


 クロは音もなく、彼らの上を通り過ぎる。姿も気配も一切見えない。振り返る者も、警戒の色を浮かべる者もなく、会話はそのまま流れていった。


(……このまま、格納庫か……あるいは管制室か)


 目的地の候補を思い浮かべ、クロは一度壁に手を当てて軌道を修正した。滑らかに旋回し、ひとつ上のフロアへ向かって浮かび上がる。


 すれ違う兵士との距離が近くなれば、壁に身体を寄せて貼りつき、静かにやり過ごす。ときに天井へ移動し、照明や配線に紛れながら通路を抜ける。


 クロの全身が、まるで空気と同化するように、無言のまま進んでいった。


 だが――


「…………何故?」


 クロは停止し、周囲を見回した。その視界に、先ほど通り抜けたはずのエアロックが映り込んでいた。


 目の前にあるのは、“3”の番号が刻まれた扉。紛れもなく、最初にこの艦に侵入した地点。


 頭の中では確かに上層へ向かい、分岐を通り、別ルートを進んだはずだった。ルートは合っている。それでも、クロはなぜか元の場所に戻ってきていた。


「何故?」


 自然に口を突いた疑問が、微かに通路に反響した。


 クロは眉をひそめ、しばし考え――ふと、何かに思い当たる。


「偉そうな奴の後を付ければいいのでは?」


 小さく、だが前向きな声だった。だが直後、わずかに表情が曇る。


「階級章は知らない……調べるしかないか……」


 そう誰もいない通路で呟いた次の瞬間、ゴーグルの中から聞こえてきたのは、少し悲し気な声と笑いを堪えきれないような声だった。


『クロ様……その、全部聞こえてます』


 ため息まじりのクレアの声が続く。そして――


『クロねぇ、迷子っすね……クックックッ……階級章のデータをゴーグルに……ぷっ……送るっす……』


 遠慮のないエルデの笑い声が追い打ちをかけてくる。


「……そうだ。通信、入れっぱなしにしてあったんだ」


 クロは小さく息を吐き、空中で姿勢を直した。その背には、悲壮感が漂っていた。

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