透明なる潜行、静寂の宙へ
クレアはひらりと跳び上がり、クロの肩に乗る。その瞬間、両脚の肉球に伝わった感触に驚き、耳をぴくりと動かした。スーツ越しの素材は、いつもとまったく違う。滑らかで、それでいて微かに吸い付くような――「キュッ」とした抵抗が肉球を包み込む。クレアは不思議そうに首を傾げ、軽く足踏みして確かめた。
「……なんだか、変わった感触ですね」
クロは苦笑を浮かべ、肩の上の狼をちらりと見やる。その小さな動作ひとつにも、彼女の身体を包むスーツがわずかに光を弾いた。そして、足音ひとつ立てずにリビングへと向かう。
扉が開くと、そこにはソファーに沈み込むようにして座るエルデの姿があった。足を組み、タブレットを片手に何かを見ていたが、扉の開く音に顔を上げる。そして――クロの姿を見た途端、吹き出した。
「クロねぇ、セクシーっすね」
「あなたに言われると、私は笑えませんよ」
クロは溜息まじりに返しながらも、どこか呆れたような笑みを浮かべた。エルデの方も、からかい半分の笑みの奥に尊敬の色を滲ませている。彼女の目線がスーツのラインを追いながら、「見事な仕上がりだ」と言いたげに細められていた。
クロは軽く首を振り、話を切り替える。ソファーに腰を下ろすと、姿勢を正して本題に入った。背筋に走る緊張がわずかに空気を引き締める。
「作戦というほどでもないんですが、透明化して入り込み、会話を聞きます。本当はデータも抜きたいんですが……やり方を知らないので、今回はしません」
その言葉に、エルデはくすりと笑い、首をかしげる。
「下手にデータを抜くと、すぐバレるっすからね。アヤコねぇなら、跡も残さずデータを引っこ抜いてこれそうっすけど」
冗談めかして言いながらも、どこか本気の響きを含んでいた。エルデの目には、鼻歌を歌いながらデータを抜きつつ、更に悪戯まで仕掛けそうなその姿がちらりと浮かんでいるようだった。
クロは小さく息を吐き、困ったように微笑む。
「……でしょうね。でも今回は、あきらめましょう」
彼女はそう言いながら、膝の上に端末を置き、画面を軽くスライドさせた。青白い光が指先を照らし、作戦の簡易図が浮かび上がる。
「今回は、私の端末に連動しているドローンをクレアの頭の上と私の肩に載せます。それと、エルデの端末に接続されたドローンを私たちが運び、中でバレないようエルデは操作して動いてください」
「はい、了解っす」
「私のドローン映像は、エルデにも共有しますので、そちらも確認を。通信は念のため――常につなぎっぱなしで」
「了解っす。クロねぇ、なんか久々に“作戦モード”って感じでかっこいいっすね」
「……作戦というほどではないです。というより、いつも“作戦”ではなく“一方的な殲滅”しかしてませんし」
皮肉めいた軽口に、エルデは肩を揺らして笑う。ふたりのやり取りに、張りつめていた空気がふっと和らいだ。室内の照明が柔らかく反射し、クロのスーツの表面に淡い光を散らす。その様子を見ながら、クロが真顔に戻る。
「エルデ、ドローンを貸してください」
「うっす」
返事と同時に、エルデは端末を腰のホルダーから取り出した。端末が光を帯びて起動し、エルデは裏面を回転させる。そこに収められていた二つの小型ドローンを、カチリと音を立ててロック解除し、慎重に取り外すとクロへと差し出した。
クロは無言で受け取り、掌の上で確かめる。指先が触れるたび、ドローンの外殻が照明を反射し、青白い光を淡く返した。彼女は自分の端末を取り出し、同じく裏面に収納されていた二つのドローンを外して起動させる。ひとつを左肩に吸い付かせるように固定し、もうひとつをクレアの頭上へと持っていった。
「毛を挟んで固定してますので、少し痛いかもしれませんが我慢を」
クロが声をかけつつ、指先でドローンの脚部を伸ばす。軽い吸着音とともに、クレアの頭上にそれが接触した。微細なマイクロクランプが毛を挟み込み、確実に固定される。
「……っ、なるほど……」
クレアは小さく声を漏らし、頭をぶるぶると振って確かめた。毛の根元を引かれるような微かな刺激が伝わり、彼女は目を細めてクロを見上げる。
「大丈夫です。違和感はありますが、問題ありません」
「ならいいです」
クロは頷き、端末のホログラムを指先で操作した。小さな光の点が二つ、クロとクレアの肩上で淡く点滅する。同期が完了し、データリンクが安定したことを示す光だ。クロの表情がわずかに引き締まり、声のトーンが落ち着く。
「エルデの端末は、中に入ったら起動させてください」
「了解っす。クロねぇの動きを確認しながら起動するっす」
エルデが軽く笑いながら端末を操作し、クロのドローン映像をホロディスプレイに投影させた。淡い光が彼女の顔を照らし、映し出されたのはクロの肩越しの視界。
クロは静かに頷き、一呼吸だけ置く。
「――始めます」
その言葉とともに、クロとクレアの姿がふっと霞のように溶けていく。空気が揺らぎ、光が歪む。
次の瞬間、ふたりの姿は完全に消え、無音のまま転移し――ガーベラの外へと移動した。
漆黒の宇宙が、視界いっぱいに広がる。艦の光が遠くに点々と瞬き、無重力の静寂が身体の輪郭を曖昧にする。
「久しぶりの、生身での宇宙ですね」
「そうですね。正確には――分身体で、ですが」
声は微かに震えながらも、ヘルメットのない真空の中で響くように共鳴した。ふたりは見えないまま、光のない空間でゆっくりと姿勢を整える。
『クロねぇ、クレアねぇ。もう宇宙っすか? というより最下層から入らないんすか? それと“生身”って…………あ、そういえばクロねぇ、人じゃなかったっすね』
エルデの通信が入る。その声音には驚きと呆れが混ざっていた。
クロは端末から流れる声を聞き、静かに息を整える。次いで、手を軽くかざして別空間からゴーグルを呼び出した。それを装着し、端末と同期させる。
「危ない危ない。通信がだだ漏れでした。今はゴーグルで聞いてますので、これで外には漏れません。……ここからは極力通信なしで。何かあれば、エルデが報告してください。ゴーグルに文字が映るよう設定しておきます」
『了解っす。でも、クレアねぇはどうするっす?』
「クレアは、何かあれば誰もいない場所で通信をしてください」
「わかりました」
クレアの返事に、クロは頷く。目の前には、巨大な戦艦が出入りする軍港が広がっていた。明滅する誘導灯の列が、無音の空間にだけ確かな存在を主張している。
「では――正面から堂々と入りましょうか」
「はい、クロ様」
『クロねぇしかできない方法っすね……』
エルデの小さな溜息混じりの声が、通信の奥でかすかに響いた。クロは口の端をわずかに上げ、その言葉を肯定するように前方へと視線を向ける。
光のない宇宙に、静かな挑戦の気配だけが漂っていた。




