静かな夜と、突然の帰還
クロたちが出発して一週間弱。アヤコは久しぶりに、シゲルと二人きりの夜を過ごしていた。リビングの照明は少し落とされ、壁のホロウィンドウにはドローンレースの映像が映っている。空を切るような機体の軌跡と、観客の歓声がかすかに部屋へ届いていた。
その光を横目に、アヤコはぽつりと口を開いた。
「じいちゃん」
「あっ?」
缶ビールを片手に、ソファーの背にもたれていたシゲルが顔を上げる。声の調子が、いつもと少し違っていた。悲壮感――というほどではないが、どこか沈んでいた。
「いや、クロたちってホントに家族になってたんだなって。なんて言うか……思い出したくないこと思い出しちゃって」
そう言うと、アヤコは視線を逸らし、クッションに顔をうずめた。幼いころ――突然いなくなった両親のことが頭をよぎったのだ。胸の奥に残るあの感覚。置き去りにされたような空白が、今も消えてはいない。それを思い出すのが怖くて、アヤコはぎゅっと目を閉じた。
だがシゲルは、そんな孫を見て鼻で笑った。
「お前はバカだな。嬉々として新しい作業場にこもって、工具を並べて“自分の城だ”なんてはしゃいでたくせに、今になって寂しいとか都合がいいな」
「じいちゃん!」
アヤコがむくりと顔を上げ、頬をふくらませる。その表情を見て、シゲルは堪えきれず吹き出した。
「いいか、今のうちだぞ」
そう言って、ビールを一口あおりながら指を突きつける。
「今のうちに、今抱えてる依頼の品を仕上げておけ。納品まで全部終わらせとけ。どうせあいつ――クロのことだ、帰ってきたらまた厄介ごとを持ち込むに決まってる」
指先がホロウィンドウの向こうを刺すように揺れ、シゲルの目が細まる。それは孫を叱るでもなく、職人としての勘から出た警告のようでもあった。
「逆に考えろ。今がチャンスだ。この“何もない時間”に仕事を片付けとけ。どうせあいつら、無傷で帰ってくる……それも、でっけぇ爆弾を抱えてな。だから今のうちに注文品を作っちまえ。でないと、忙しさに目を回すかもしれんぞ」
シゲルの言葉に、アヤコはクッションを抱きしめたまま苦笑した。彼の言う“爆弾”が比喩で済まない可能性を知っているからこそ、笑いに少し力がなかった。
「じいちゃん。それだとクロがかわいそうだよ」
「事実だろ」
シゲルは鼻を鳴らして、缶ビールを傾ける。炭酸の泡が静かに弾ける音が、テレビのドローンレースの歓声に混じった。
「考えてもみろ。あいつが来てから、俺たちの“平穏”は消えた」
そう言いながら、口元をゆがめて笑う。そして、軟骨の唐揚げを一つつまみ、口の中で噛みしめた。油の香ばしい匂いが漂う。
「今はどうだ? いつもの静けさは消え、忙しい日常がやって来てる。しかも儲けもうなぎ上りだ。生活費の支払いはあいつ持ち。新しい店舗も作業場も手に入れた。さらに最新の輸送艦まで――全部タダだ」
まるで悪い商人のような顔をして、シゲルはにやりと笑う。アヤコは呆れたように眉をひそめたが、それでも口元にはかすかな笑みが浮かんでいた。
「それに拾いもんのノアに恩も売って、アレクのアホたちもクロ持ちの給料で、あれだ――タダでこき使える。日常がこれだけイベントだらけで、しかも長期の依頼となりゃ、どんな“イベント”という名の爆弾を抱えて帰ってくるか分かったもんじゃねぇ」
シゲルは言い終えると、もう一度ビールをあおった。金属缶の底が空気を切る軽い音がして、彼は喉を鳴らしながら続けた。
「だからこそ、寂しがってる暇はねぇ。今のうちに、前倒しでいろいろ片付けとけ」
その声は、先ほどまでの冗談めいた調子から一転して、職人らしい現実味を帯びていた。シゲルはそう言うと、唐揚げをもう一つ口に放り込み、ビールで流し込む。
「それに――ようやく完成するんだ、俺の酒の棚が。今まで金があまりなく買えなかったが余裕が出てきた今なら貯めて、俺の酒コレクションを完成させてやるぜ」
「じいちゃん……まったく」
アヤコは呆れたように目を細め、それでもどこか嬉しそうに笑った。その笑顔には、わずかに滲む寂しさが混じっている。
「そうだね。帰ってくるんだし、寂しがってる暇なんてないよね。確かに、また何か頼まれごとをされそうな予感もあるし、今のうちにしっかり仕事をこなそう」
そう言って顔を上げたアヤコの表情は、先ほどまでとは違っていた。決意と、少しの明るさを取り戻した笑顔。
その横顔を見つめながら、シゲルはふと心の中で呟く。
(しっかし……家族か。確かに俺も、寂しいなんて思っちまうあたり、もう完全に日常の一部なんだな。あいつらの存在が、いつの間にかこんなにでけぇもんになっちまったか)
テレビの画面では、ドローンが光の尾を引いて夜空を駆け抜けている。その光がふたりの顔を淡く照らし、静かな夜がゆっくりと流れていった。
翌朝。
シゲルはまだ寝ぼけ眼のまま、ゆっくりとリビングへ足を踏み入れた。冷えた床の感触に小さく息を吐きながら、キッチンへ向かう。いつものようにコーヒーを淹れて、ぼんやりとテレビのニュースでも流す――そのはずだった。
「おはようございます。お父さん」
「おう……おはよう」
返事をしながら、カウンターの向こうを見た瞬間――シゲルの脳が一瞬で覚醒した。そこには、見慣れた黒髪の少女と、小さな狼が並んで立っていた。
「はっ? クロと……それにクレアも? なんでここに? 依頼はどうした!」
コーヒーを淹れようとしていた手が止まり、カップを持ったまま固まる。現実感が追いつかず、口が半開きのままのシゲルを前に、クロは静かに微笑んだ。
「思った以上に早く宇宙ステーションに着いたので、一旦帰ってきました。驚きました?」
その声音はどこか悪戯っぽく、まるで“ドッキリ成功”とでも言いたげだった。隣のクレアも前足を口元に添え、こらえきれない笑いを押し殺している。
「お父さん、ごめんなさい。でも、なかなかいい反応でした」
「……クソが! やられたわ!」
悪態をつきながらも、シゲルの顔には笑みが浮かぶ。驚きと呆れと、そして――久しぶりに顔を合わせた“家族”への喜びが滲んでいた。その表情を見て、クロも穏やかに目を細める。クレアの尾も小さく揺れた。
「じいちゃん、朝からうるさいよ……」
眠たげな声がして、アヤコがリビングに現れた。寝癖のついた髪を手ぐしで直しながら、目をこすってあくびを一つ。
「おはようございます、お姉ちゃん」
「おはよう、クロ」
ふらふらとキッチンに入り、棚からコップを取り出して水を入れる。冷たい水を一気に飲み干したその瞬間――アヤコの動きがぴたりと止まった。
「って、なんでクロが!? 依頼は!?」
声が裏返るほどの驚きに、シゲルは思わず吹き出した。クロとクレアも耐えきれずに笑い出し、朝のリビングには賑やかな笑い声が広がる。
カップを手にしたままのシゲルが肩をすくめ、アヤコが頬をふくらませる。クレアの尾が小刻みに揺れ、クロの笑い声が柔らかく響く。
穏やかで、懐かしい朝。ほんの少しの再会が、家の空気を一瞬で明るく染め上げていた。




