出航、そして再会の光
クロが店主にお礼を言い、スミスたちも軽く頭を下げた。暖簾をくぐると、外の人工街路は穏やかな昼光に満たされていた。コロニーの天頂部に設置された照射板が、緩やかに巡りながら柔らかな青を落とし、足元の合成舗装にはわずかに光の粒子が踊っている。食後の香辛料と油の香りが、まだ鼻腔に残っていた。
「良かったのか? 奢ってもらって」
スミスが腕を組み、眉をひそめて尋ねる。クロはその表情を見て、ふっと微笑んだ。
「いいんです。店主にクレアの件で、いろいろ融通を利かせてもらいましたから。それに――また少し無茶を言うかもしれませんし」
柔らかく、しかしどこかいたずらっぽい響きを帯びた声だった。その一言に、スミスとウェンは顔を見合わせる。
「お手柔らかに頼む」
「残り二つの開発も頑張るよ」
二人の声が重なり、思わず笑いがこぼれた。通りの上では搬送用ドローンが静かな電子音を残して飛び過ぎていく。遠くのスピーカーからは、昼休みを知らせる軽快な電子チャイムが流れていた。
クロが手を軽く振ると、ウェンが明るく「またねー!」と返す。スミスはサングラスを指で持ち上げて「次はこっちが奢る」とだけ言い残し、去っていった。その背中を見送りながら、クロの目元に穏やかな光が宿る。
彼らが離れていくと、コロニーの街路が少し静まり返った。遠くからは機械式換気塔の低い唸りが響き、昼の喧騒の隙間に人工風の音が混じる。
「さて……アレク。もう一軒、お願いできますか?」
その後、クロの口から飛び出した計画に、アレクは思わず固まった。
「……本気ですか、社長!? 俺は、その……まだ早いと思います……」
「今回、アレクの意見は聞きません」
クロは静かに言い切った。唇の端にかすかな笑みを浮かべ、その黒い瞳には、何かを思いついた者特有の“いたずらの光”が宿っている。
「なぜなら、私がしたいからです。それに――」
言葉を区切り、小首を傾げる。目を細めたその仕草は、まるで悪戯を仕掛ける子供のようだった。
「アレクも、こういう展開……嫌いじゃないでしょう? 一度は子供のころ、こういうのに憧れたはずです」
「…………」
アレクは返す言葉を見つけられず、額に手を当てる。ため息をつくその姿には、あきれと苦笑が入り混じっていた。クロのその笑みを見た瞬間、もう何を言っても無駄だと悟ったのだ。
「……了解しました。ですが社長、せめて前もって言っていただければ、相談して頂ければ……」
「面白くないでしょ。それに言ったら拒否する未来が見えるような気がしましたし」
クロは軽く笑い、髪を揺らして言葉を重ねた。
「いきますよ。案内してください、アレク」
その明るさは、強引さを超えて不思議な説得力を帯びている。アレクは再び深く息を吐き、肩を落とした。
――彼女のやりたいことに巻き込まれる未来が、手に取るように見える。だが非を唱えられるはずもなく、結局彼はクロの計画に引きずられていくのだった。
それからの準備は、驚くほど早かった。
数日後、クーユータのドックでは補給が行われ、最終チェックを終えたアンが端末を抱えながら慌ただしく走り回っていた。機械音が反響する無人のドック内で、整備用のアームが静かに動作し、艦体の各部に取り付けられた補給ラインが順に引き抜かれていく。アンは短く確認を済ませると、足早にエレベーターへ乗り込み、ランドセルのドックへと移動した。
その直後、減圧が開始される。空気が抜けていく低い音が、金属の壁を伝って艦内に響く。気圧警告灯が点滅し、ドック全体に薄い振動が走った。ランプがゆっくりと緑から赤に変わると、音もなく巨大なハッチが開く。無重力の空間に誘導灯が次々と点灯し、淡い青の光が直線を描いて進路を示す。その光が艦体の曲面をなぞり、まるで目覚める巨体を静かに照らしているようだった。
「エルデ、クーユータを出航させてください」
クロの声がブリッジに響いた。その口調は落ち着いているが、わずかに高揚を含んでいる。
「了解っす! クーユータ、出るっす!」
エルデの元気な返答と同時に、艦体全体がわずかに震える。ブリッジの床を通して低い振動が伝わり、艦内照明が一段階暗く落ちる。ドックを固定していたアームが次々と外れ、重低音とともに鋼の拘束音が響き渡った。
ゆっくりと、だが確かに――戦艦クーユータが動き始める。その形はまるで巨大な棺桶のようで、暗闇の中に浮かぶ影が静かに前進していく。MQEの出力が上がり、推進ノズルの周囲に青白い粒子が集まった。粒子が渦を巻き、やがて尾を引く光の流れとなって艦の背後へ伸びていく。青い光の軌跡を描きながら、クーユータは宇宙を泳ぎ始めていた。
ブリッジの全周位モニターには、外の景色が映し出されている。コロニーがゆっくりと遠ざかり、都市の灯りが帯のように連なっていた。
クロはリビングに置いてあるインカムを手に取り、すぐ前にあるブリッジへと視線を向けた。リビングと操縦席の間はわずか数歩。壁を隔てて聞こえる機械の低い駆動音が、艦がゆるやかに進んでいることを伝えてくる。
操縦席に座るエルデに、クロは軽く声をかけた。
「エルデ、ランドセルにいるクレアに通信を繋いでください」
「了解っす、クロねぇ!」
エルデは笑顔を浮かべ、ホロディスプレイの操作パネルに手を走らせる。淡い青の光が指先に反応し、幾重もの通信ラインが宙に浮かび上がった。数秒後、ディスプレイにノイズが走り、ざらりとした音が途切れる。
「クレア、聞こえます?」
『聞こえます! 私の声はどうですか、クロ様!』
少しこもったような、けれど嬉しさと興奮が滲む声がスピーカーから流れ出す。その響きに、クロの頬が柔らかく緩んだ。
ホロディスプレイに映し出されたのは、ランドセルのブリッジ内部。アレクの頭の上で胸を張るクレアの姿が映る。首元には黒地に金の刺繍が施されたスカーフ――アヤコ特製の超小型通信機とマイクが丁寧に縫い込まれている。さらに耳元には黒いヘアピン型のスピーカー。毛に紛れて外見からはわからないほど精巧な造りだ。
『本当はもう少し可愛いのが良かったですが……これはこれで機能美というものですね!』
クレアは誇らしげに前足でスカーフを整え、やや得意げに言う。アレクの頭の上で尻尾をゆらゆら揺らすその姿に、クロは堪えきれず笑みをこぼした。
「よく似合ってますよ、クレア。通信の問題はこれでクリアですね。では――ランドセルも発艦して、こちらに合流してください」
『了解です! ポン、ランドセルを出航です! クロ様のところへ!』
『了解です、副社長』
軽快なやり取りが交錯する。アレクの頭の上で胸を張るクレアの姿に、クーユータのブリッジではクロとエルデが微笑み合った。一方、ランドセル側ではポンの少し緊張した声が響く。ランプが順に切り替わり、出航許可信号が点灯。
――ランドセルが、ゆっくりとコロニーを離れていく。
コロニーの外壁が画面に小さくなり、船体の外側を流れる青い光が、クーユータとの距離を詰めていく。クロは迫りつつあるランドセルの光点をモニターで見つめながら、エルデに声をかけた。
「暫くは、帰れませんね」
「でもクロねぇ、ドリーム星系に着いたら一旦帰るっすよね?」
エルデが少しからかうように笑う。クロは振り返り、わざと落ち着いた口調で返す。
「エルデだけドリーム星系に残ります?」
「いやっす」
即答したエルデの声に、クロが吹き出した。艦内に響く笑い声が、宇宙の静寂の中に柔らかく溶けていく。