神話の片鱗と制圧
クロは無言のまま、粗大ごみ――拘束された警備員を肩に担ぎ上げ、再び転移を発動した。目指すは、あらかじめ座標を記録していたトイレの個室。無音の揺らぎとともに空間がゆがみ、瞬時にその場へと着地する。
「……よし。片付け、開始」
独りごちる声に感情はない。粗大ごみを担いだまま、姿を隠すことなく堂々と個室を後にし、まっすぐ警備待機所に向け建物内部へと歩を進める。
その姿が監視網に捉えられた瞬間――警報が鳴った。
鋭く耳を劈くような警戒音。警備ロボが一斉に動き、巡回中の警備員たちが騒然と対応に走る。だが、その混乱の中、クロの足取りは一切乱れない。
一方、施設内の社員たちは、その異常な光景に表情を凍らせ、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑い始めた。
けれど――クロは、誰ひとり逃がさない。
すれ違いざま、拘束された警備員の姿を高く掲げ、社員たちの進路を無言で遮る。焼け焦げた太もも、欠けた耳、血に濡れた拘束具――目を逸らす者はいなかった。
「こうなりたくなければ――逃げないことです」
その声は静かだった。感情は削ぎ落とされ、ただ“現実”だけが響く。
「建物の外に出た瞬間、こうなります」
圧倒的な“結果”の提示に、逃げようとした者たちの足が止まる。わずかな沈黙ののち、誰ともなく近くの部屋へと身を寄せ始めた。
「一ヶ所に集まって、閉じこもっていてください。後で、うかがいます」
そう告げたクロは、警備ロボと警備員たちが次々と現れる通路の奥へ、無言で視線を向ける。
そして次の瞬間――担いでいた粗大ごみを、こちらへ向かってくるロボたちに向けて、迷いなく放り投げた。
無様に転がる拘束体。床にぶつかった拍子に、焦げ跡のある脚が露わになり、欠けた耳から垂れた血が鈍く床を濡らす。
「……こうなりたくないですよね?」
その言葉は、まるで天気予報でも告げるかのように穏やかだった。皮肉も、怒りもなかった。ただ、“それが当然の末路だ”と静かに告知する声だけがそこにあった。
誰一人、言葉を返さなかった。誰一人、踏み出そうとはしなかった。
クロはゆっくりと社員たちの方へ目を向ける。
「なりたいんですか?」
その問いかけに、もはや答える者はいない。一斉に――社員たちは扉の奥へと姿を消していった。
そして――クロは、警備ロボたちの攻撃範囲へと、迷いなく足を踏み入れる。
間を置かず、実弾の雨が降り注いだ。警備員たちのマシンガンも一斉に火を噴き、狙いは正確にクロの身体を捉えている。
だが。
銃弾は、届かなかった。
否――クロに触れる前に、粒子となって霧散していく。質量も熱も奪われ、音もなく塵へと還る。彼女に一歩近づくごとに、すべての攻撃が“意味”を失っていた。
クロは、ゆっくりと警備員たちとロボットの前へ進む。その足取りは、あまりにも静かで、あまりにも確実だった。
銃声が響くたびに、恐怖だけが積み上がっていく。
「おい、当たってるはずだろッ!」
「わかってる! でも効いてないんだよッ!」
「シールド中和弾は!? 早く撃て!」
「撃ってる! けど……全然、中和できねぇッ!」
無線の悲鳴は、もはや命令ではない。混乱と絶望が、ただ音になって空間に撒き散らされていた。
クロはその中心で、表情ひとつ変えず、ホルダーからビームガンを抜く。
「――ロボは邪魔なので、破壊します」
その声は、淡々としていた。命の価値も、躊躇も、何ひとつ滲ませない。
「あなたたちも、そこに転がっている“粗大ごみ”のように壊れたくなければ、今すぐ武器を捨てて、床に伏せてください」
一拍の間。
「そうすれば、“粗大ごみ”扱いにはしません。“ただのごみ”扱いで――済ませます」
その一言を残し、クロはためらいなくビームガンを構えた。
狙いはぶれず、動作に無駄もない。
次の瞬間、光条が走る。
一機、二機、三機――警備ロボたちが、順に爆ぜるように沈黙していった。火花と金属片が飛び散り、警備エリアは瞬く間に焦げた鉄の匂いに包まれる。
それでも、クロの手元は微動だにしない。
「まだ、抵抗しますか?」
ゆっくりと――ごく自然な動作で、クロは視線を動かす。倒れた“粗大ごみ”を指さし、静かに言い放つ。
「次は、四肢を“ねじります”よ?」
その声音に脅しはない。ただ、予定を伝えるかのような事務的な響きだけがあった。
目の前の現実に、警備員たちは完全に判断を失った。
武器を取り落とし、床にひれ伏す者。恐怖に呑まれたまま、無謀にも引き金を引き続ける者。現実を否定するように、背を向けて逃げ出す者――。
その光景を見やり、クロは一つ、短く息をついた。
「……まったく。めんどくさいですね」
その呟きは、ごく小さな独り言にすぎなかった。だが次の瞬間――
空気が、変わる。少女の目の色が黒から金色に変化する。
クロの身体から漏れ出したのは、“絶望”だった。
何者よりも濃密で、理性すら破壊する本能の気配。すべての生き物にとって、本能的に理解できてしまう“死”の気配。逃げ場のない檻の中に閉じ込められたような、圧倒的な捕食者の存在感。
視界が震える。足がすくむ。呼吸すらままならなくなる。全身を貫くのは、恐怖ではない。“絶望”そのものだった。
それは、バハムート。宇宙において頂点とされる神話の獣――破壊と死を統べる最強の存在。その“本能の片鱗”が、今、少女の形をとってこの場に解き放たれた。
一瞬。ただ一瞬、それが漏れ出しただけで、空気が変わった。視界が揺らぎ、鼓膜が軋み、心臓が自分の意志と無関係に暴れ出す。
足は地を離れ、膝が抜ける。喉は閉ざされ、呼吸は止まる。脳が――理解を拒んだ。
それは恐怖ではなかった。“死”そのものだった。
戦意も、逃走本能も、意識も――すべてを飲み込み、塗り潰していく。圧倒的な捕食者の気配に、本能が反応する前に、限界が訪れた。
次の瞬間。
全員が、崩れ落ちた。眼を見開いたまま、血の気を失い、かすかな呼吸だけを残して意識を手放す。
ただそこには、静かに佇む少女だけがいた。沈黙の中心で、冷たく、ただ、狩りを終えた者として立っていた。