始動と本音
動き出したこれからの生活は、こうして静かに始まっていった。元エアカー店舗は、クロの後方支援チーム――「ブラックカンパニー」の拠点へと姿を変えようとしていた。
埃の匂いが残るリビングで、エルデが掃除機をかけながらぽつりと呟く。
「埃っぽいっすが。綺麗っすね」
端末を弄りながらアンが少し俯いて返す。まだ心の片隅に引け目を残している。
「そうですね。でも、ホントに自分たちがここに住んでいいんでしょうか」
エルデは手を止めずに明るく肩を揺らす。掃除機の音だけがふたりを包む。
「大丈夫っすよ。これからっす。自分でも、クロねぇとクレアねぇの信頼は得たっすし……頑張るっすよ」
エルデの笑顔は、どこか素朴で真っ直ぐだった。それを見たアンは少しだけ肩の力を抜き、胸に溜まったものを吐き出すように深く息をついた。そして、ゆっくりと目を細め、前を見据えるように頷いた。エルデは黙って掃除を再開し、リビングに掃除機の低い唸りだけが響いた。
店舗の中では、無人の掃除ロボットがせわしなく動いていた。透明なガラス面を縦横に磨き、床の隅々までブラシが撫でる。天井の埃も静かに吸い上げられ、まるでそこに誰かの手が伸びているかのような徹底ぶりだった。
通りすがる人々が足を止める。その目は新しい店への期待を込めた輝きを帯びていた。看板はまだ掲げられておらず、建物を見上げたり、壁際を覗き込んだりと、誰もが“ここに何ができるのか”を探っていた。
一方、奥にある作業場と倉庫では、掃除機の低い唸りが響いていた。コンクリートの床に沿って音が這い、かつての埃や油の残滓が少しずつ過去のものになっていく。
「兄貴、倉庫の方は終わりました」
ポンが掃除を終え、手にしたクリーナーのコードを巻きながら作業場に現れる。そこではアレクが床を磨いていた。
「おう。こっちはもう少しかかりそうだ。家の方の清掃を頼む」
「任された」
そう言いながらも、ポンはふと足を止めた。何かが喉元までこみ上げ、だが飲み込むには苦く、言葉にするには重い。視線を床に落としたまま、思い切るように顔を上げた。
「自分たち、変われんですかね……」
アレクは手を止め、黙ってポンを見た。その目は問いかけでも咎めでもない。ただ、受け止めようとしていた。
「このまま……社長に甘えていても、いつか――」
ポンの言葉を断ち切るように、アレクが口を開いた。
「……だからと言って、あのままじゃ終わってた」
その声には、何かを振り切るような強さがあった。
「考えるまでもなく、あの状況は崩壊寸前だった。いや……確実に、俺たちは犯罪に手を染めてた」
言い切ったその声には、言葉以上の重さがあった。過去の選択に対する悔いと、逃げられなかった自分自身への嫌悪が滲む。
「一度やった身だ。だからこそ分かる。もう、あそこにいたら終わりだった」
「兄貴……」
ポンの声は低く、否定も肯定もできないままに呟かれた。
「だが、チャンスを貰えた。しかも最後のチャンスだ。甘えてもいい――でも、変わらないといけない。変わらなければ、今度こそ終わりだ」
アレクは静かに自分の手を見下ろす。その手は、かつて何を握り、何を壊してきたのか。心に残る痕は、洗っても消えることはない。
「今になって……後悔してる」
アレクの声が、わずかに震えた。
「ランクが上がって、金も女も、全部手に入れてた。手に入れたつもりだった。でも、それは全部――間違いだった」
誰にも責められていないのに、彼の声は罪の告白のようだった。
「捕まって、クロさんに復讐しようとして……逃げて……情けなくて、後悔しかなかった。お前たちを巻き込んで、なにやってんだって……ずっと、自分に問い続けてた」
「いや……それは俺たちも……」
ポンも視線を落とし、かすれた声で続ける。
「兄貴に全部、頼ってた。全部押し付けてた。兄貴の名前を使って、好き勝手やって……その代償が……あまりにも重かった」
掃除機のグリップを握る手に、ぐっと力がこもる。その指先が震えていた。
「そうだな。だからこそ、だ……」
アレクはゆっくりと手を握り締め、まっすぐポンを見る。
「クロさん、グレゴさん、シゲルさん……ここまで手を差し伸べてくれた人がいたんだ。だから、俺は――覚悟を決める」
その言葉は決意の刃のように、空気を切り裂いた。
「これが最後のチャンスだ。もし、もう一度自分を裏切るようなことをしたら――呪いで裁かれるんじゃない。俺自身が、終わらせる」
「兄貴……!」
ポンが思わず息を呑む。
だがアレクは、静かに笑った。かつてのような虚勢ではなく、今を生きる人間としての、柔らかく穏やかな笑みだった。
「だからお前たちも、その覚悟を持って行こう。じゃないと、シゲルさんと美味い酒は飲めねぇ」
「……はいっ!」
ポンの目から迷いが消える。その瞳には、真っ直ぐな光が宿っていた。
「さあ、動くぞ。社長とタンが帰ってくる前に、ある程度は終わらせておこう」
「了解です!」
二人の足音が、再び作業場に響き始めた。汗と埃の中に、確かに希望の匂いが混じっていた。
エアカーの助手席に座ったクロは、窓の外を眺めながら、小さく「なるほど」と呟いた。だがその声音には、どこか参っている気配がにじんでいる。原因は――車内の匂いだった。
「これは……キツイですね」
「社長まで、そんな……」
苦笑いを浮かべながら、ハンドルを握るタンもスンスンと鼻を鳴らす。無意識に目を細めてしまうほどの臭気が、車内を支配していた。天井のシミ、こぼれた食べ物の痕跡、座席に挟まったスナックの破片。さらに足元には、正体不明の金属パーツがごろりと転がっている。車内は“汚れている”を通り越して、もはや“野戦病院の廃墟”とでも呼ぶべき惨状だった。
「こんなもんだと思うですが……」
「いや、これはもう“芸術”の域に入ってますよ」
クロは顔をしかめつつ、窓を全開にする。そして、身を乗り出して勢いよく外の風を吸い込んだ。
「……酸っぱいやら甘ったるいやら、何種類の芳香剤を同時に使ったんですか? しかもそれに、今までの汗と汚れが混ざって……もう“カオス”としか言いようがないです」
「……そ、そこまで……」
「ええ。窓を開けてなければ、……脳より先に嗅覚が限界を迎えそうです」
あまりの表現にタンが苦笑いを浮かべていると、クロは真顔で言い放った。
「帰ったら、まずはこの車の清掃からですね。……いや、いっそやめましょう」
「や、やめる……?」
「買い直しましょう。中古でもいいんです。どうせなら大型荷物が積めるタイプがいいですし、衛生的にもその方が……お財布にも優しいと思いますよ?」
「…………申し訳ないです」
ハンドルを握る手に、少しだけ力がこもった。タンの肩がわずかに落ちる。
そんなやりとりの合間に、タンはふと思い出したように口を開く。
「……社長。この際ですから、聞いてもいいですか」
「ええ、どうぞ」
クロは窓から外を眺めたまま、軽い口調で応じる。
「どうして自分たちなんです? 自分たちみたいな前科者、グレゴさんの推薦があったとしても、社長なら拒否できたと思うんですが……」
タンの声には、かすかな不安と、覚悟を探るような響きがあった。その問いに、クロは静かに微笑んだ。そして、振り返らずに答える。
「……おもしろそうだったからです」
「……は?」
「いや、ほら。更生していく姿って、漫画やアニメでよくあるじゃないですか。“ダメだった奴らが立ち上がって成長していく”みたいな」
あまりにも飾り気のない理由に、タンは言葉を失った。思わず視線を逸らす。だが、クロの次の言葉が、その沈黙をさらに深いものへと変える。
「エルデも似たようなものですよ」
その名を聞いた瞬間、タンの眉がわずかに動いた。
「今でこそ家族として頼れる仲間ですけど、最初は――」
クロは、こともなげに言った。
「“今、命を握ってるエルデをこっち側に引き込んだら、奴隷ができて面白いかも”って、そんなふうに思ってました」
車内の空気が、一瞬にして静まり返る。ふざけているようで、冗談には聞こえない。淡々と語られるその言葉には、計算や打算ではなく、ただ真っ直ぐな“本音”が詰まっていた。
タンは知らず知らずのうちに、額から汗を流していた。クロの口からあっさりと「おもしろそうだったから」という理由を聞かされた瞬間――そのあまりの無邪気さと、そこに一切の打算が含まれていない事実に、言葉を失っていた。
車内に流れる空気が、ひどく静かに思えた。クロはそのまま何も気にせず、窓の外を見ながら穏やかに語り続ける。
「まあ……エルデの生い立ちを聞いたら、そんな考えはすぐに消えましたけどね。でも、最初の“きっかけ”って、案外そんなもんでいいんです」
「……そんなもん、って……」
思わずこぼれたタンの声には、まだ驚きと戸惑いが残っていた。
「ええ。そんなもんです」
クロは迷いなく言い切る。表情は柔らかく、だがその目には曇りがない。
「いくら準備したって、そのきっかけがなければ意味がない。動き出せるかどうかは、ほんの少しの揺らぎで決まるんです」
その言葉に、タンは再び口を閉じる。そして、クロが静かに言葉を重ねた。
「いいですか、私なんて何千年も――ただ、じっとしていただけなんです」
その声は、どこか遠くを眺めているようだった。クロはまっすぐ前を見たまま、静かに語る。
「星の監視をして、誰にも気づかれず、何も変えず。……“きっかけなんていくつもあっただろう”って、そう思ったことが何度もあります。でも実際は、なかなかないものなんですよ」
言葉の合間に、クロはほんの少しだけ視線を落とした。コロニーの街並みが、窓越しに揺れて見える。
「なあなあな日常って、怖いんです。今日じゃなくてもいいや、明日でもいいか、また今度で――そうしてるうちに、十年、百年、千年が過ぎていく」
その横顔には、どこか寂しさの影が差していた。何を見てきたのか、何を失ってきたのか――そのすべてを知るのは、クロだけだ。
タンはその表情を、言葉もなく見つめた。ただ、静かに息を呑む。
やがてクロは小さく笑った。
「……だからこそ、きっかけなんて些細でいいんです。重要なのは、その瞬間に動けるかどうか。動けたなら、それが正解なんです」
風が車内を通り抜け、クロの黒髪をふわりと揺らした。
「逆に、動けなかったら……その時点で、もうダメなんですよ」
言葉に強さはなかった。だがその静けさが、何よりも重かった。
タンは思わずハンドルを握り直した。汗ばんだ指先がレバーに吸いつき、力が入りすぎたのか、関節が軽く軋む。
――自分は、動けるだろうか。
その問いが、胸の奥に重く沈んだまま消えずにいた。だがそのとき、助手席から届いた言葉が、そんな迷いを溶かすように響いた。
「あなた達には、期待してますよ」
クロの声は穏やかだった。けれど、そこには曖昧さがなかった。
「“なあなあな日常”から動けたのなら、それだけで十分です。お父さんじゃないですけど……儲けもんですよ。高ランクのハンターが手に入ったのは」
あくまで淡々と、冗談めかして――しかし、本心から。
「……社長。その言い方はちょっと……」
苦笑いを漏らしながら、タンは視線をフロントガラスへと戻した。
見慣れた道。何度も通ったはずの街並み。けれど、その景色がどこか新しく見えた。
(“動けたなら、大丈夫”か……)
その言葉が、胸の中で繰り返される。不安を打ち消すように、静かに自分に言い聞かせる。
(なら俺は……いや、俺たちは――大丈夫だ)
車内の空気が、少しだけ軽くなった気がした。そして、タンは改めて言葉を口にする。
「……社長。きっかけを与えてくれて、ありがとうございます」
「気にしないでください」
クロは窓の外を見ながら、静かに微笑んだ。
「後はあなた達次第です。私は……期待してますからね。アニメや漫画みたいな、派手で格好いい貴方たちの復活を」
「自分たちは、そんな主人公タイプじゃないですけどね……」
タンは照れたように笑った。だがその笑顔には、さっきまでの迷いがなかった。
エアカーはゆるやかに右へと曲がる。行き先は、コロニーの中心にある総合デパート。
そこに待ち受けるのは、自分たちが使っていいのかと思うぐらいな品々の生活用品の爆買い――そして、それに目を丸くするタンの顔が見れるのは、ほんの数分後のことだった。