鍵と仕掛けの前口上
クロとシゲルは、新しく手に入れた“元エアカーショップ”の前に到着した。シャッターは下りたままで、アレクたちのエアカーも見当たらない。まだエルデたちは到着していないようだった。
クロが端末をかざすと、電子的な認証音が鳴り、シャッターが静かに開いていく。
「電子キーに、電動シャッターか……」
シゲルがぽつりと呟く。クロもふと思い出したように尋ねた。
「そういえば、家の鍵って――物理キーでしたよね。シャッターも手動でしたし。電子化とか、しないんです?」
「しねぇよ」
シゲルは即答すると、どこか誇らしげにポケットからじゃらりと鍵束を取り出して見せつけた。
「言っとくが、できないんじゃねえ。あえて、やらねぇだけだ」
今どき珍しい金属鍵の束が、ジャラジャラと音を立て、クロの目の前でゆっくりと揺れた。
「電子キーは便利だ。統一規格の施設とか、公共物には向いてるだろうさ。でもな――俺は、あんまり好きじゃねぇんだ」
「なるほど。……それだけが理由ですか?」
クロがシャッターの上がる様子を眺めながら尋ねると、シゲルは大きくうなずいた。
「よく聞け。電子化すりゃ、確かに楽だ。鍵も一つで済む。だがな――一番肝心な“最後の砦”が、簡単に破られるんだよ」
「……ハッキング、ですか?」
「そうだ!」
その一言とともに、シゲルの顔に苦々しい記憶がにじむ。
「どこにいても、どんなに電子キーの組み合わせを変えて鍵をかけても……ハッキングでこじ開けてくるクソババアがいたんだよ!隠れても、鍵かけても、最後の砦の隠れ家までハッキングしやがる!電子錠なんざ、あのクソババアにとっちゃ飾りみてぇなもんだ。家の鍵だろうが、心の鍵だろうが、平気でこじ開けて乗り込んできやがった!」
思い出しただけで怒りがこみ上げるのか、シゲルは握った鍵束にぎゅっと力を込める。
「クソババアって……お姉ちゃんのおばあさん……つまり、お父さんの奥さんのことですよね?」
クロは肩をすくめ、苦笑を浮かべながら店内へと足を踏み入れる。
「……もう、亡くなってるなら変えてもいいんじゃないですか?」
シャッターが完全に開ききると、中は薄暗く、埃っぽさが漂っていた。店舗正面は一面のガラス張りで、かつてエアカーが並べられていたであろう空間には、今は何もない。
シゲルも店内に入ってきて、しばらく無言で空間を見渡す。
「……変えようと思ったこともある」
そう呟き、ほんの少しだけ笑みを浮かべる。
「けどよ。これは――俺と、婆さんの思い出なんだ。……だから、変えねぇ。わがままだけどな」
クロはその横顔を静かに見つめていた。思い出を噛みしめるようなシゲルの顔は、バイザーに覆われて表情こそ見えない。けれど、唯一覗くその目だけが、どこか寂しげに揺れているように見えた。
やがてシゲルは、じゃらついた鍵束を静かにジャンプスーツのポケットへ戻し、店内をぐるりと見回す。
「……俺の店より広いってのが、まず気にくわんな。で、住居スペースが狭いってのもまた気にくわん」
「文句はなしです。そもそも、ここは私の従業員の家なんですから」
クロはくすっと小さく笑いながら、壁際にあった制御パネルへと歩み寄る。ボタンを押すと、重々しい音を立てて、店舗奥のメインシャッターが開き始めた。
外光が射し込み、がらんとした店内に淡い光が差し込む。埃の粒子が浮かび、どこか懐かしい空気が流れた。
「――今、気づいたんですけど。まだライフラインの契約してないのに、電気が来てますね」
クロの言葉に、シゲルはしゃがみ込み、床を撫でながら答える。
「この家の造りのせいだな。エアカー屋ってのは常に電力使うからよ。無接点充電板が家全体に張り巡らされてる。だから常に通電してるってわけだ」
そのまま床をじっと見つめ、ぽつりと呟く。
「電気使い放題。しかも税金払ってりゃそれで済むってか……うらやましいもんだな、まったく」
溶接グローブ越しに床を軽く叩いてから、クロを振り返る。
「俺んとこなんざ、作業場とカウンター、キッチンにリビングと各部屋の家電を置いている一部の場所にしか置いてねぇのに。こいつは贅沢だな。……引っぺがして、自分の家に移してぇぐらいだ」
「……工事できるなら、やってもいいですけど。少しくらいは残してくださいね?」
クロは冗談めかしながらも笑みを浮かべ、店内をゆっくりと見渡す。広々としたスペースには何も置かれておらず、奥には別のシャッター付きの倉庫が見える。おそらく在庫管理用のバックヤードだろう。作業場全体としては、シゲルの店よりひとまわり広い。
それに気づいた瞬間、シゲルは小さく舌打ちした。
「……クソ。やっぱり、こっちの方が広ぇな。まあ、エアカーの整備を考えたら妥当な設計だけどよ……なんか悔しいわ」
ぶつぶつと文句を垂れながら、空の作業場を一歩ずつ歩いて回る。工具を置く場所、整備台を設置するであろうスペース、そして壁の補強――職人の目が細かく巡っていく。
「お姉ちゃんに使わせる予定なんですよね。嫌ならここ使います?」
からかうように言ったクロの一言に、シゲルは即座に首を横に振った。
「……使わん。あいつの成長のためだと思って、こっちは譲ってやる。俺は……少しだけ狭くても慣れた場所のほうが性に合ってる」
そう言いながらも、シゲルの足取りは明らかに未練がましい。
やがて足を止めると、肩をすくめ、バイザー越しに天井を見上げた。
「……ったく。床の補強も、排熱処理も防音防振も完璧じゃねぇか。ほんとに、文句つけるとこがねぇのがムカつくわ……」
ぶつくさと文句をこぼしながらも、シゲルの顔には、どこか満足げな色が浮かんでいた。作業場の隅から隅まで歩き回り、設備の配置や配線の導線、床の強度まで視線を送るその背中は、すでに職人の目になっている。
そんな中――外から、軽やかに着地するような音が響いた。続いて、かすかに悲鳴めいた声が届く。
『くっさ……!やっと着いたっす……外の空気、最高に美味しいっす……』
『そこまで酷くないと思いますけどね?』
タンの落ち着いた声が、エルデの悲鳴に重なるように聞こえてくる。
クロは思わず口元を緩め、ちらとシゲルのほうを見る。
「……着いたみたいですね」
言いながら、出迎えようと軽やかに作業場を出ようとする。だが、その背中に向かって――
「待て、クロ」
シゲルが低く声をかけ、手で制した。不思議そうに振り返ったクロに、シゲルは近づいてくると、声を潜めて何やら耳打ちを始めた。
最初は首をかしげていたクロだが――そのうち、口元がわずかに吊り上がり、目元にいたずらな光が宿る。ごにょごにょと続く小声の相談は、まるで子ども同士の秘密の打ち合わせのようで。
やがてクロは、堪えきれずに口角をゆるませた。
「……それ、やります?」
小さく問いかけたその声には、どこかワクワクを隠せない色がにじんでいた。