怪物対怪物
戦いは、バハムートの一撃で幕を開けた。
宙域に沈黙が満ちるなか、光のような加速で一気にカクトガへと接近。その拳は正面、カマキリのような顔面を狙い、寸分の狂いもない角度で叩き込まれようとしていた。
だが――届く寸前、カクトガの身体がぐにゃりと曲がった。重力すら欺くような滑らかな躱しでかわされ、反撃が来る。
返す一手。盤面を抉るように、クマのような巨大な爪がカウンターで振るわれた。
爪はバハムートの顔面を捉えた――が、音が鳴ることはなかった。爪先は、顔面表層で止まっている。
だが、そこで終わらない。
カクトガの腕の横に折り畳まれていた、別種の構造――カマキリの鎌が、音もなく動いた。刃はわずかな隙間を縫い、首元に滑り込み、そのまま斜めに切り裂く。
「……っ!」
バハムートが短く呻く。直後、トラのような後肢が跳ね上がり、下から鋭角に腹部を蹴り上げてくる。
衝撃音とともにバハムートの身体が宙を飛んだ。
その一撃で距離が開き、空間に血が浮いた。――バハムートの血だった。
首元から流れ出した赤が、重力のない空間でゆっくりと広がり、ひとつ、またひとつと軌跡を描くように漂う。
カクトガは笑うように複眼を動かし、まるで顎を鳴らすようにカマキリの顔を上下させた。
「……ガチュ、ガチュ、ガチュ」
不気味な擬音だけが響く。
バハムートは無言のまま、首筋に手を当てる。自分のものではないような熱を感じながら、指先に滲む鮮血を見つめた。
――他者によって流された血など、いったい何千年ぶりか。
そして、思わずマスクの内側で口角が上がる。
(……ようやく、か)
「いいよ、お前。ようやく……火が入る」
「……?」
カクトガがわずかに首を傾げる。
だが次の瞬間、背中の羽根が一斉に広がり、推進機のように光を放つと――カマの両腕を広げ、猛スピードで接近してきた。
空間を切り裂く音はない。ただ、ひたすらに軌道上の金属音が響き渡る。
両腕の鎌が、視認すら困難な速度で振るわれる。斜め、縦、水平、交差――あらゆる角度から、バハムートの身体を刻むように。
バハムートはそれらをすべて、両腕で受け止めていた。
だが、完全に防ぎきることはできない。刃の軌道がかすめるたびに、その表層が裂け、血が迸る。
無音の宇宙に、バハムートの血だけが舞う。
暗黒の宙域に、紅の軌跡が幾筋も花のように散っていく。それはまるで、静寂の中に咲き誇った“歓喜の導火線”だった。
血が、宙に舞う。重力のない空間で、赤が軌跡を描く。
バハムートは、切り刻まれる両腕からしたたるその血を見つめ、口の中で呟くように心で叫んでいた。
(ああ――血が舞う……)
そして、その奥底から湧き上がる感情に、確信を重ねる。
(ようやく……“本当の戦い”が……できる!!)
対するカクトガは、勝ち誇ったように喉の奥を鳴らしながら、両腕の鎌を大きく振りかぶる。その一撃は、バハムートの腕を根元から断ち切るつもりで放たれた。
鋭い金属音が宇宙に響き、刃が空間を裂く――
だが、バハムートの腕は、飛ばなかった。
「ガュゥ~~~~ッ!!」
悲鳴とも咆哮ともつかぬ声が、カクトガの口から漏れた。
次の瞬間、その場から一瞬で飛び退く。だがすでに遅い。
バハムートの右手には、断ち切られたはずのカクトガの鎌が握られていた。左腕は、手刀のような鋭さで振り下ろされており、断ち落とされた鎌の破片がきらめきながら宇宙に散っていた。
その場に立つバハムートの声音は、低く、しかし歓喜に染まっていた。
「……歓迎しよう。お前は、俺の――」
言葉の続きを待たず、バハムートが動く。
手にしていた鎌をその場に放り投げ、拳を握る。そのまま一直線にカクトガの顔面を狙い、拳を突き出す。
だが――またしても躱される。
しかし、それすら“織り込み済み”だった。
カクトガが再びカウンターを繰り出すより早く、――吹き飛んだのは、カクトガの方だった。
「……!」
腹部に直撃したのは、嵐の塊のような“重撃”。
右拳の攻撃を回避させ、その軌道の逆――バハムートの左腕には、すでに“風”が纏われていた。
それは嵐を圧縮した破壊の拳。シュツルム・ナックル。
躱されることを見越し、左拳が腹部にめり込む。クマのような分厚い筋肉がえぐれ、空間が砕けるような轟音が響いた。
「踏み台だ――力試しの地獄へ、ようこそ!」
その言葉と同時に、怒涛のラッシュが始まる。
シュツルム・ナックルを纏った連打。一撃ごとに、空間が軋み、カクトガの肉体が抉れ、液体が散る。
押し返されるカクトガは、蹴り上げられた岩塊のように宙を跳ね、反動もなく吹き飛ばされていく。羽根が壊れ、鎧のような肉体がひび割れ、異形の叫びが空虚に響く。
その後を追うように、バハムートの胸部が赤く輝き始める。両腕を開き、胸の中心に光が収束していく。
そこに宿るのは、破壊の象徴。
「バハムート――」
重く、低く、その名を自ら呼ぶ。
「――ブラスターーーーーーーーーッ!!」
収束された真紅の光が、解き放たれる。光線ではない。“破壊と熱の奔流”だ。
空間そのものを焼き払うような、赤熱の咆哮。
宇宙の静寂が砕け、まるで次元が裂けるかのように、虚空が紅に染まる。
「……!!」
声にならぬ叫びが、カクトガの体内からこぼれた。
真紅の破壊の奔流――バハムート・ブラスターが、すべてを呑み込む。
光も音も熱も、すべてを巻き込んだ圧倒的な奔流がカクトガを包み、ねじり、貫き、焼き尽くす。
やがて光が収束し、静寂が戻る。
そこに残されたのは――かろうじて“原型”を留めるのみの、カクトガだった。
装甲は炭化し、複眼は潰れ、四肢の一部は熔断されて消失。鋭利だった鎌も溶け落ち、華やかだった羽根も半分以上が消えていた。
呼吸音すら感じさせないその姿は、もはや立っていることすら奇跡のように見えた。
だが、バハムートは冷たく言い放つ。
「おいおい……その程度なわけ、ないよな?」
その声には怒りも焦りもなかった。ただ、心底からの退屈への拒絶が滲んでいた。
「俺のために用意された“おもちゃ”なんだろ……だったら、せめてもう少し遊ばせろよ」
その姿は、完全だった。
先ほどまで全身を切り裂いていたカクトガの斬撃が刻んだ傷跡は、すでに完全再生されていた。首筋の裂傷も、両腕の断面も、痕跡すら残さず消失。肌は滑らかに再構築され、血の一滴さえ流れていない。
バハムートの身体は、ただ静かにその場に立っていた。
そして――カクトガの顎が、ガチッと音を立てて動くと再生が始まった。
焦げつき、炭化して崩れていた表層――その奥から、まずは赤黒く蠢く繊維状の組織が、じゅくじゅくと音を立てて滲み出す。
まるで腐肉から再生するように、それらの繊維がうねり絡み合い、粘膜のような皮膜が内側から膨らむように張られていく。
切断されていた四肢は、肉芽の塊からぬるりと伸びる。筋肉の束がねじれながら形を成し、そこに骨のような軟質の支柱が食い込み、節のような硬質の節点が露出してくる。
羽根の基部には、透明な膜が幾層にも分かれて染み出し、膜の中で模様が胎児のように形成される。やがて乾き、蝶とも蛾ともつかない異様な形状がふたたび広がる。
唯一、鎌だけが例外だった。
無数の黒光りする甲殻片が、周囲から吸い寄せられるように集合し、“刃”という形を指示されたかのように、精密に組み上がっていく。
それは、まるで“殺すためだけに選ばれた器官”だった。
再生されたその様はまさしく――怪物だった。
第三者がこれを見れば、こう言うに違いない。
怪物対怪物。
それはまるで、フィクションの世界の中だけで語られるもの――銀幕の中の特撮のような、“現実ではないはずの戦い”。
だが、今ここで、それは紛れもない“現実”だった。