変わりゆく者たちの影で
そして、クロたちは豪奢な絨毯が敷かれた廊下を抜け、特別室へと通された。柔らかな照明と落ち着いた香料が漂い、深い色合いの家具と磨き上げられたガラスのテーブルが整然と配置されている。空調すら心地よさを計算しているようで、外の喧騒とは隔絶された静謐な空間だった。
温かな茶を出され、メイドたちに丁寧にもてなされながら暫く待っていると、やがて扉を叩く控えめなノックの音が響いた。
「どうぞ」
クロが一言だけ応じると、扉が音もなく開き、一人のメイドが滑るように入室して深々と一礼する。
「――皆様をお連れいたしました」
その言葉に続き、アレクとアンポンタンの三人が姿を現した。足取りは重く、肩をすぼめ、視線を床に落としたまま。煌びやかな特別室の空気に押し潰されそうになり、一歩を踏み出すのにも勇気が要るようだった。まるで裁きを受ける罪人のように怯えきった様子で、場違いにもほどがあった。
「しゃ、社長……俺たちは……」
蒼ざめた顔でおずおずと口を開こうとするアレク。しかし、その声は最後まで届くことはなかった。
クロは視線を彼らに向けず、メイドへと穏やかに告げる。
「では、徹底的にお願いします」
「かしこまりました、クロ様」
応じたメイドが小さく指を鳴らす。その合図とともに、部屋の隅に待機していたメイドたちが一斉に動き出した。白と黒の衣装が一斉に翻り、流れるような所作でアレクたちを取り囲む。
「ちょ、ちょっと待っ……!」
必死に抵抗しようとするが、すぐさま両肩を押さえられ、背中を高級なバーバーチェアに沈められる。
「クロ様のご指示です。――大人しくなさってください」
その一言は鋭くも揺るぎない。アレクたちの抗議は喉の奥で詰まり、力なく消えていく。抵抗は虚しく、手際よくケープを巻かれ、散髪と身なりを整えるための準備が矢継ぎ早に進んでいった。
ハサミの音が軽快に鳴り、剃刀が撫でるように髭を剃り落とす。香り高い整髪料が空気に混じり、埃と汗の臭気を塗り替えていく。アレクたちは成す術もなく目を泳がせながら、プロの技に飲み込まれていった。
「……私の時と同じですね」
クロは静かに呟き、小惑星オンリーワンでの自らの経験を思い出す。
隣でその言葉を聞いたエルデが、にかっと笑って首を振った。
「そうっすけど、自分の時はメイドさんたち、めちゃくちゃ優しかったっすよ」
クロは苦笑を返し、肩を軽く竦める。
「……まあ、状況が違いますし。比べられるものではないですね」
そう言いながらも、クロの視線はわずかに横へ逸れていた。鏡に映るのは、徐々に“人の姿”を取り戻しつつあるアレクたち。
ぼさぼさに伸び切っていた髪は容赦なく切り揃えられ、肌の汚れは丹念に落とされていく。粗野な風貌に隠れていた彼ら本来の輪郭が、少しずつ表へと浮かび上がる。
その変化を、クロは淡々と見守っていた。
――と、その時。彼女の端末がかすかな振動とともに音を鳴らす。
画面を覗き込んだクロは、数秒の確認だけで判断を下す。
「これは……急ぎますか」
「ど、どうしたっすか!? 何か起きたんすか!」
エルデが身を乗り出し、声を張る。しかし、クロはすぐに首を横に振った。
「いえ、大した事ではありません。ただ、この場を離れます」
そう言って立ち上がりかけ、ふと振り返る。
「エルデ、端末を」
呼ばれた本人は一瞬戸惑ったが、すぐに腰のポーチから端末を取り出す。次の瞬間、クロはその端末に素早く金額の入力を行い、送金処理を終えた。
「く、クロねぇ!?」
動揺した声が上がるも、クロの声音は変わらず冷静だった。
「もし私が戻れない場合は、支払いを済ませてください。家には彼らと一緒に向かい、清掃やライフラインの手続きなどを」
託された責任の重さに、エルデの目が少しだけ見開かれる。だが、すぐに頷き直し、胸を張った。
「わかったっす! ここは任せてほしいっす!」
「頼もしいです。ではお願いします」
「はいっす!」
クロが微笑みを浮かべたのは、その瞬間だった。信頼に応える決意が、確かにそこにあった。
そのままクロは肩にクレアを乗せ、静かに立ち上がる。
特別室の扉に向かって歩き出そうとしたところで、声が飛んだ。
「社長っ!」
それはアレクだった。何か言いかけたその口元を、すぐそばのメイドが制す。
「お動きにならないよう、お願いいたします」
すっと手が伸び、アレクの顔を鏡のほうへ向ける。映ったのは、まさに去ろうとするクロの後ろ姿。
「終わったら、エルデの指示に従ってください。私は少し所用で動きます」
振り返ることなく、その言葉だけを残して特別室を後にする。
扉の外では、ひとりのメイドが控えていた。
「後はお願いします。何かあれば、エルデに伝えてください」
「かしこまりました。行ってらっしゃいませ、クロ様」
一礼するメイドを背に、クロはゆっくりと歩き出す。
その足取りは迷いがなく、まるで自分のやるべきことがすでに見えているかのようだった。
そのままデパートのフロアを抜け、無人のトイレへと入る。周囲を確認し、奥の個室に身を滑り込ませると――転移の光が一瞬きらめき、クロの姿は静かに掻き消えた。
次に現れたのは、ギルドの屋根裏の静寂な空間。ギールの私物が転がる空間はもはや見慣れた風景だった。
クロは無駄のない動きで一階へ降りると、すぐにカウンターに立つグレゴの姿が目に入った。彼はホロディスプレイを睨んでいたが、クロの気配に気づくなり、すぐ反応を返す。
「来たか」
「端末に記載されていましたが、以前設置したノードスパイア付近で……また災害の気配ですか?」
問いかけるクロの声に、グレゴは一度深く頷く。だが、その顔には露骨な苛立ちが浮かんでいた。
「そうなんだが……どうにも様子がおかしい」
「おかしい、とは?」
首を傾げるクロに、グレゴは無言で端末を操作し、すでに展開していたホロディスプレイをクロの前に移動させる。
映し出されたのは、通常の緩やかな推移とは明らかに異なる、渦を巻くように激しく歪む重力波の波形だった。
「こんな急激な重力異常、過去にもほんの数回しか記録がない」
その含みを持たせた言い方に、クロは、静かに尋ねる。
「……人為的、ということですか?」
グレゴは即答せず、わずかに口元を引き結び、低く息を吐いた。
「……この少し前に、フロティアン軍の通過記録がある。通過自体は規則上問題ない。だが――その後、数時間も滞在していた記録がある」
彼は新たなデータを呼び出し、端末の画面に追加表示する。
「そして……重力異常が発生した直後、彼らは対応もせず、そのまま離脱。しかもログには“現地に問題なし”の記録が残されている」
グレゴの眉間には深いしわが刻まれ、額には怒りを滲ませる血管が浮かんでいた。
その様子を見たクロは、静かな口調で呟く。
「……できる、ということですね」
「できる。だが、それをやれば国際条約違反だ。問題は、証拠が薄い!」
怒りを抑え込むように、グレゴはゆっくりとカウンターの縁に手を置いた。その手には、血管が浮き上がっていた。
「自国内の行為だと主張されれば、我々にはどうにもできない。重力異常の記録はある。彼らがそこに“いた”証拠もある。だが、それだけじゃ足りない。しかも今は、軍の弱体化を言い訳にして対応を放棄する始末……」
ホログラムの渦を睨みつけたまま、グレゴは苦々しげに吐き捨てた。
「……こんなもの、ふざけてるとしか言いようがねぇ」
クロはその言葉を黙って受け止め、わずかに頷く。
「――わかりました。つまり、急いで現地に向かう必要があるということですね」
その確認に、グレゴはほんの一瞬だけ視線を落とし、悔しさをにじませた表情で、ゆっくりと頷いた。
「……すまないが、至急頼む。お前なら、あの地点まで“すぐ”に行けるだろ?」
「はい。前と同じ座標であれば、問題ありません」
クロの目が細められ、その瞳にはすでに、迷いのない意志が宿っていた。