変わりゆく者たちと街の匂い
クロが腕輪を受け取り、別空間へと仕舞った瞬間、鼻を刺すような異臭に気づいた。
長時間の清掃で流れた汗、壁や床から舞い上がった古い埃、それらが衣服に染み込んで、酸っぱさと湿ったカビ臭さが入り混じった重い臭気となって四人の体から漂っていた。閉ざされた空間に充満していたそれは、空気を押しつぶすかのようで、ほんの数歩近づいただけで肌にまとわりつくようだった。
鼻の利くクレアは真っ先に顔をしかめ、耳を伏せながら器用に前足で鼻先を押さえた。
「まずは銭湯ですね……。臭すぎます。まともな服は残ってます?」
クロが淡々と問いかけると、アレクたちは互いに視線を交わし、バツの悪そうに肩を竦めて苦笑した。
「申し訳ないです、社長。まともなのは少ししか……。ハンター時代に着ていた服ぐらいで」
クロは一つ息を吐いて頷く。
「わかりました。このコロニーに銭湯はあります?」
アレクが即座に答える。
「銭湯じゃないですが、スパランドならあります」
「なるほど」
クロは軽く顎に指を当て、段取りを組み立てていく。
「では掃除はここまでです。清掃費は既に支払ってあると聞きましたし、残りは業者に任せましょう。あなたたちは管理施設の方々にもう一度謝罪してから、スパランドで体を清めてください。その後、総合デパートに来てもらいます」
指示を受けたアレクたちは姿勢を正し、真剣な顔つきで頷いた。
「わかりました!」
クロはさらに確認する。
「ところで、あの古いエアカーは動くんですか?」
アンが少し考えてから答える。
「整備はしていたので走ります。ただ……」
「ただ?」
言い淀むアンの横で、ポンが小さく苦笑し、代わりに口を開いた。
「内部がまだ汚いんです。座席も荷台も、油と埃でベタベタで……。先に保存庫の掃除を優先してましたから」
クロは彼らの判断を肯定するように頷いた。
「それは正しい選択です。なら、そのエアカーの清掃は家に戻ってからですね」
そう言って、全員へと視線を巡らせる。四人は一様に疲労で顔を赤らめていたが、その眼差しには昨夜までにはなかった素直さが宿っていた。
「さあ、行動開始です。私たちは先に総合デパートで待っています。着いたら端末に連絡してください」
「承知しました、社長!」
アレクが声を張り上げると、三人も同調するように力強く返事をした。その声音には、昨日までの卑屈さはなかった。
クロは小さく頷き、満足げに目を細めると踵を返した。背後では、アレクたちが掃除道具を片付ける音が聞こえはじめていた。木の柄が壁に立てかけられ、布切れを水桶に放り込む音が響く。その音に、昨日まで漂っていた荒んだ気配はなかった。
クロは片付けに取りかかるアレクたちの姿をしばし見守った。汗に濡れた背中が、昨日までのだらしなさを塗り替えるように真っ直ぐに伸びている。その変化を確かめると、彼は静かに「先に行きます」と告げ、クレアとエルデを伴って保管庫を後にした。
街路へ出ると、ひんやりとした空気が肌を撫でる。埃と汗の匂いに包まれていた保管庫の空気とはまるで別世界で、三人の足取りも自然と軽くなる。
だが、歩き出して間もなく、クレアが小声で尋ねてきた。耳をぴんと立て、眉間に皺を寄せながら。
「クロ様……アレクとアンポンタン、本当に同じ人物なんですか?」
その言葉に、先頭を歩いていたエルデが振り返り、首を傾げた。
「見た感じっすけど、自分はそこまで酷いとは思わなかったっす。最初は、そんなにヤバかったんすか?」
クロは足を止めず、前を見据えたまま淡々と応じる。
「そうですね……酷いものでしたよ。実力があるぶん質が悪い。弱い者をいたぶり、奪うことに快感を覚えていたような者たちでした」
その言葉に、エルデの表情に影が落ちた。唇を噛み、悲しげに首を振る。
「……それは、ダメっすね」
クロは静かに頷き、クレアへと視線を移した。
「クレアが疑うのも無理はありません。あの変わりようは驚くものです。ですが同じ人物に違いありません」
そう言って彼女の頭を軽く撫でる。まだ半信半疑の顔をしていたクレアだったが、撫でられると目を細め、尻尾が小さく揺れた。
「私は、人間というものを長く見てきました」
クロの声には、転生前の記憶、数千年にわたり星の監視者として見守り続けてきた重みがあった。
そして言葉を区切りながら続けた。
「その経験から言えるのは――変わる者は確かに変わります。ただし、それには“タイミング”と“運”が要るのです。タイミングが来ても運が悪ければ変われない。逆に運があっても、タイミングを逃せば何も変わらない。アレクたちは、その二つがたまたま揃ったのでしょう」
淡々とした声色の奥に、長い年月の中で幾度となく見送ってきた“変われなかった者たち”の影がにじむ。数千年に及ぶ観察者の記憶が、その一言一言に重さを与えていた。
「けれど――最後は本人の意思次第です。変わったと思って慢心し、また堕ちる者もいる。変わりきれず諦めてしまう者もいる。だからこそ、変わるというのは難しいのです」
それは説教ではなかった。ただ事実を告げるだけの声。しかし聞く者に、揺るぎない実感を押し付けてくる迫力があった。
クレアは耳を伏せ、小さく「はい……」と呟いて頷いた。エルデは拳を強く握り、まっすぐ前を見据える。三人のあいだに、言葉を超えた余韻が流れる。
「彼らはまだ“変わり始め”に過ぎません。これからが本番です。最初のチャンスをつかんだ者は、誰もがああいう風に一時的に真面目になります。でも、それが続くのは少数です。慣れは必ず訪れる。そして――慣れにも良いものと悪いものがある」
「良い慣れって、なんっすか?」
エルデが両手を頭の後ろで組み、後ろ歩きをしながら尋ねる。軽い仕草の裏に、真剣な視線がある。
「現状を改善し続ける慣れです。人は生きるうえで休息も必要だし、楽しむことも必要です。それを上手く組み込みながらも、一歩ずつ前へ進む。そういう慣れなら問題ありません」
クロの答えにエルデは「なるほど」と短く頷いた。代わってクレアが、鼻先を少し動かしながら問いを重ねる。
「では、悪い慣れとは?」
「簡単です。現状に甘えて先に進むことをやめた者。停滞に慣れてしまい、いまの水準で満足してしまうことです」
「それって……悪いんすか?」
エルデの鋭い指摘に、クロは一瞬目を見開き、すぐに小さく笑った。
「悪いか悪くないかで言えば……必ずしも悪とは言い切れません。ただ、彼らの場合は違います。今は“マイナス”からの出発です。その状態で停滞すれば、マイナスのまま固定されてしまう。――それこそが問題なのです」
「なるほどっす」
エルデは素直に頷き、正面へ向き直る。靴音を軽く響かせながら歩を進めるその背に、クロは短く付け加えた。
「あくまで私の見解です。捉え方は人それぞれですからね」
その横で、クレアがぽつりと漏らす。
「マイナスの停滞……まるでこの国みたいですね」
クロは一瞬だけ目を細め、苦笑を浮かべた。
「そうですね。……いずれ動きがある。そう信じたいものですが」
爽やかな人工風が大通りを吹き抜ける。ホログラム広告の光がきらめき、商人の呼び声や子供たちの笑い声が重なり合い、街は活気に満ちている。保管庫に染みついていた埃臭さがようやく薄れ、代わりに焼きたてのパンや油の匂いが鼻をくすぐり、街の空気へと溶けていった。