無重力の拷問室
クロの標的に選ばれたのは、先ほど屋上に出入りしていた警備員だった。
(屋上には、カメラはなかったよな)
クロは念のため、ドローンが撮影していた映像をもう一度再確認する。映像内――カメラらしきものは、どこにも映っていなかった。
(もしカメラがあれば、俺が潜入したときの不自然なドアの開閉が映ってるはずだし、警戒態勢も強化されてるはず。……だが、それはない)
だからこそ、屋上での“確保”が最適だとクロは判断した。
(なら……ここでやる)
そう結論づけると、クロは再び屋上のある階へと足を運ぶ。ドアの前で耳を澄まし、気配がないことを確認してから、静かに扉を押し開ける。
屋上には、誰もいなかった。
(……タイミングがずれたか。なら――待つ)
クロはその場で姿を消し、屋上の隅――死角となる位置へと移動。体を壁に預け、無音のまま、ただ時間の流れに身を預ける。
五分……十分……思ったより長い静寂に、ほんの少しだけ不安が過ぎったその時――
階段を上がってくる足音が微かに響く。
(……来た)
クロは静かに、深く息を吐いた。無駄にならずに済んだ、と心の中で胸をなで下ろす。
屋上の扉が、静かに開いた。
警備員が無言のまま現れ、足音を立てずに歩を進める。やがて彼が立ち止まったのは――先ほどクロが“顔面着地”しかけた、あの定位置だった。
クロは姿を消したまま、音もなく背後へと忍び寄る。腰からビームガンを抜き、照準を定め――次の瞬間、背中を掴む。
そして、転移が発動する。
一瞬のゆらぎ。視界が歪み、重力の感覚がふっと消える。移動先は、無重力の貸ドック――無音の宇宙空間に似た静寂。
クロは掴んだ背中を離さず、そのままの勢いで太ももにビームガンを押し当てる。出力は最小限。だが、至近距離からの照射は容赦なく警備員の皮膚を焼いた。
「がぁっ!」
悲鳴とともに身体がのけぞり、無重力の中で揺れる。反射的にもがくような動き――だが、その全てを、クロは無言で制した。
「動くな。騒ぐな。振り向くな」
圧のこもった低い声が、無重力の空間に淡く響く。
「皮膚が焼けた程度だろ。大丈夫。話が終われば……楽になります」
そのまま、クロは警備員の背中に手を添えたまま圧を強める。逃げ場のない重力のない空間に、確かな恐怖だけが張りつめていた。
「殺しはしません。でも――沈黙、虚偽、偽りの情報を吐いた場合」
一拍、わざと間を空けて、クロは静かに続ける。
「まずは、右腕から切り落とします」
その言葉を聞いた瞬間、警備員の意識は凍りついた。
屋上にいたはずの自分が、突然の転移でまったく知らない空間へ放り込まれた。視界の端に広がる重力の消えた構造壁、身動きすら取れない不安定な姿勢。そして太ももを焼く痛み――だが、それらをすべて凌駕する恐怖が、今まさに背後にある。
掴まれた背中。そこから、まるで地獄の底から這い出してきたかのような“圧”が流れ込んでくる。
存在するだけで空気を歪ませるような、得体の知れない圧力。にもかかわらず、その声は――まるで年端もいかぬ少女のものだった。
その“声”の不釣り合いさが、さらに恐怖を増幅させていく。
クロは静かにビームガンをホルダーへと戻す。そして、端末の裏面に指先を滑らせ――内蔵された超小型ドローンを取り出した。無音のまま浮上する一機。クロはそれを軽く操作し、自身が映り込まぬよう角度を調整し、録画を開始。確認を終えると、再びビームガンを手に取る。そして、無重力の静寂に――問いが放たれた。
「率直に聞きます。貴方の会社――人身売買、していますね?」
問いかけは穏やかだった。だが、その静けさこそが、何よりの脅威だった。
警備員は言葉を返さない。いや、返せなかった。浮遊したまま、痛みと混乱に呑まれ、ただ沈黙する。
「………………」
クロは一拍、間を置いた。そして、ごく淡々と、続ける。
「慈悲は――今回限りです。沈黙は、拒絶と見なします」
その声音に、一切の感情はなかった。響いているのは、“実行する”という確かな意志だけ。
「右腕を切り落とす前に……そうですね。私が“言うだけ”の存在だと思われるのは不本意です。ではまず、耳を――削いでみせましょうか。それとも……根元から、引き千切りましょうか」
その言葉に、熱も嘲笑もない。ただ――告知のように淡々と。
「話す! 待って! やめてっ!」
無重力空間に、悲鳴がぶつかる。警備員の意思は、ついに音として崩れ落ちた。
だが、クロは瞬きひとつしない。
「……ダメです。やると言いましたよね?」
静かにビームガンをホルダーに戻し、代わりに右手を伸ばす。その指先が、警備員の右耳に触れる。
「待って! 話すから、慈悲を――お願いします! お願いし――」
ブチッ、と。
粘膜と軟骨が裂ける、鈍く湿った音がした。
「ガァァッァァ~~~~~~!!!!!」
無重力の空間でのたうつ身体。痛みと混乱で、思考も言葉も粉々に砕かれる。
だが、クロの声はあくまで平坦だった。
「すみません。全部千切ろうと思ったんですが……ちょっとしか、千切れませんでした」
血が、無重力空間に舞い散る。深紅の粒子が、静かに、ゆっくりと漂う。まるでそれが、悲鳴の残響を引き継ぐかのように。
「……ちょっとしか千切れませんでしたね」
クロは呟くように言い、右手に持った“欠片”を軽くかざす。それは先ほど引きちぎった――警備員の耳の一部だった。
「では、その次の段階を……見せましょうか」
淡々とした声音のまま、クロはその欠片をそっと見せつける。そして次の瞬間、それを指先で軽く握った。
ひとつ、意識を込める。
耳の欠片が、無音のまま、さらさらと崩れていく。粒子になり、塵になり――空間に溶けた。
「……わかりましたね?」
その光景を、警備員は目を見開いたまま凝視していた。いや、もう何も“見て”などいなかった。
痛みで歪む表情。その奥で、何かが音を立てて崩れていく。
心が――折れた? 違う。砕け、塵となった。先ほどの耳と同じく、粉々に、塵となって空中に漂っている。
「わ、わがっだ……は、はなず……じっでいるごど……ぜんぶ……」
涙と痛みに濡れた顔が、うまく言葉を形にできずに震える。けれど、意志だけは――はっきりと滲んでいた。
警備員の最後の抵抗は、完全に潰えた。