癒しと昼食
「では――明日の朝までに必ず綺麗にしておいてください」
「……わかりました、社長」
アレクが深く頭を下げる。その声には、反発ではなく覚悟の響きが宿っていた。
クロは頷き、ふっと視線を落とすと、無造作に片手を別空間へと差し込む。指先が虚空の奥を探るたび、微かな光の粒が舞い、何かを引きずり出すような「ガサゴソ」という音だけが響く。
その異様な光景に、アレクとアンポンタンの三人は息を呑んだ。少女の姿をしている目の前の存在が――やはり人の枠から逸脱した怪物であることを、改めて思い知らされる。
やがてクロは小さな腕輪を取り出すと、躊躇なくアレクに投げ渡した。
「……それは再生の腕輪です。嵌めていれば自然に傷は癒えます。――おそらく、その顔も」
短い説明を残し、クロは振り返る。肩のクレアも同じように一瞥だけを送り、立ち去る気配を見せる。
「クロ社長……」
アレクは腕輪を大事そうに両手で包み込み、言葉にならぬ感情を喉奥に押し込んだ。ただ深く頭を垂れ、唯々その背を見送るしかなかった。
こうしてクロたちは倉庫を後にし、ギルドへ向かう。昼食を取りつつ、グレゴへ報告を兼ねて立ち寄る予定だ。
道中、先ほどまでの緊張が嘘のように、エルデがぱっと明るい笑みを浮かべ、弾む声で言った。
「クロねぇ、ありがとうっす!」
「気にしないでください。前から取ってあげようとは思っていました。……ちょうどいいタイミングでしたね」
クロは軽く答えながら、自然とエルデの首筋へ視線を送る。そこにはもう、以前に刻まれていた呪いの痕跡はなかった。痣一つない滑らかな肌が陽光に照らされ、清らかに輝いていた。
「それでも……ありがとうっす」
エルデは満面の笑みで言葉を重ね、勢いよく続ける。
「クロねぇ、クレアねぇ――これからも、よろしくっす!」
「ええ、こちらこそ。……お願いしますね、エルデ」
クロが柔らかく応じると、肩の上のクレアも瞳を細め、全力で頷いた。
次の瞬間、エルデは照れくさそうにクロの背へ飛びつき、頬をすり寄せて甘える。
「もぉ……」
クロは苦笑しながらも、無理やり引き剥がして歩みを進めた。
だがすぐに背後からエルデの声が飛ぶ。
「クロねぇ、そっちじゃないっす! ギルドはこっち!」
指さされた方向はまるで逆だった。
「…………」
クロは無言のままきびすを返し、エルデの指す道を歩き出す。その頬は、ほんのりと赤みを帯び――恥ずかしさに染まっているのが、誰の目にも明らかだった。
そしてギルドに着くと、カウンターでは珍しくグレゴが子供の相手をしていた。その子供は、金髪を高く結んだツインテールの少女。年齢はどう見てもクロより下にしか見えないが、その鋭い眼光と堂々とした態度は、場数を踏んだ大人を思わせる異質な迫力をまとっていた。
「――で、ギールは?」
少女の放った第一声は、遠慮も敬意もない。あまりに無造作な物言いに、グレゴの額にピクリと青筋が浮かぶ。
「口の聞き方がなっちゃいねぇな。後で説教してやろうか?……まあいい。ギールなら執務室にいる」
吐き捨てるように答えるグレゴをよそに、少女は眉一つ動かさず、簡潔に礼を言うと、軽やかな足取りで二階へと上がっていった。金のツインテールが翻り、階段の踊り場で陽光を反射して一瞬きらめく。年齢には不釣り合いな落ち着きをまとった背中は、子供というより兵士のように見えた。
その背中を見送りながら、クロは小首を傾げてグレゴに歩み寄る。
「珍しいですね。……私よりも子供のように見えましたが」
グレゴは深々とため息を吐き、手で乱れた髭を掻いた。わずかに肩を落とした姿には、普段の豪胆さからは想像できない“お疲れの父親”のような雰囲気すら漂っている。
「子供ってのはな、生意気でどうにもならん」
「そうですね」
クロが淡々と返す。
「……嫌味も通じねぇか」
渋い顔でぼやくグレゴ。その姿を、クロは小さく微笑を浮かべながら見上げた。
「それなら――昼をご一緒しませんか? ジンさんも誘って、あそこの居酒屋で。……アレクの件と、少し相談したいことがあります」
唐突な提案に、グレゴは驚いたように片眉を跳ね上げた。
「弁当を用意してあるんだがな……」
言いかけて、しかし肩をすくめる。
「まあ、たまにはいいだろう」
書類データを閉じながら、視線をクロに戻す。
「ジンにも伝えておく。お前たちは先に行ってテーブルを確保して、注文も済ませておけよ。俺とジンは弁当を持って、一緒に後から向かう」
その声は疲れを含みながらも、不思議と温かみを帯びていた。