給料と“アンポンタン”の誕生
倉庫に漂う空気の重さはまだ完全には晴れていない。だが、その奥にかすかな色の変化を感じ取ったクロは、顎に手を添えて思案した。
(……ふむ。どうやら完全に腐りきる前ではあったようだ。間に合った――そう言うべきか)
そう結論づけると、クロは姿勢を正し、淡々と口を開いた。
「――次は、給料の話をしましょう。最初に言っておきますが、あなたたちを今すぐに私の“チーム”に入れるつもりはありません」
きっぱりとした線引き。その響きに、四人はわずかに身を竦める。クロの言葉が曖昧でないことを知っているからこそ、口を挟む者はいなかった。
クロは少しだけ間を置き、わざと軽い調子で言った。
「さて、月収はいくらが妥当か……わからないから、とりあえず200万Cでいいか」
数字を聞いた瞬間、空気がざわめく。アレクが反射的に前のめりになり、思わず声を張り上げた。
「い、いや――高い! 高すぎる!」
思わぬ反応にクロの目がわずかに見開かれる。
(……ほう。まさか、そちらから“高い”と突っ込んでくるとはな)
驚きの裏に、微かな期待が灯る。
(まだ金に溺れていない。まともな感覚が残っている――面白い)
クロは試すように、次の額を提示する。
「では、100万C」
だが、再びアレクが首を横に振った。
「それでも高い。クロ……いや、クロさん。最初は、その半分でも高いと思う。10万Cでいい」
その言葉に、取り巻き三人も次々と口を重ねる。
「兄貴……クロさん。それでお願いします」
「俺も、それで構わない」
「……それが妥当だと思う」
四人の眼差しは真剣そのものだった。金を欲するどころか、むしろ安くてもいい、信用を積み重ねたい――そんな意思が滲んでいる。
クロはしばし彼らを見据える。だが、胸の奥に別の感情が込み上げた。
(……いや、俺が決めたんだ。素直に受けろよ。それに、最初からそういう態度が取れるなら――なぜ最初から見せなかった?)
口には出さなかったが、クロの瞳には確かな怒気が宿っていた。
(……呪いも発動していない。つまり、本心から言っているのか……余計に腹立たしい!)
次の瞬間、クロは勢いよく立ち上がった。
「60万C! これで決定だ! 文句があるなら――殴ってこい!」
その声は倉庫の壁を震わせ、四人を椅子ごと押し潰すかのような迫力を帯びていた。
「クロ様、落ち着いてください」
肩の上のクレアが、冷静な声音で制する。そして四人へと鋭い視線を向けた。
「――クロ様がそう定めたのです。あなたたちは受け入れなさい。自分の価値を安売りして“10万でいい”などと口にするのは間違いです。むしろ、示された額に見合うよう努力し、クロ様の役に立ちなさい」
真摯な諭しに、四人は押し黙るしかなかった。だがそこで、緊張をやわらげるようにエルデが小さく笑った。
「クレアねぇ……それもちょっと違うっすよ」
柔らかな声色。緊迫していた場の空気に、わずかに緩みが差し込んだ。
クロの声にわずかな柔らかさが混じった。怒気を収めたクロは、再び椅子に腰を下ろし、冷静に指示を下す。
「――端末を出してください。今から振り込みます」
「しかし……」
アレクがためらいを見せるが、黒い瞳に射抜かれた瞬間、口を噤み、しぶしぶ端末を取り出した。装飾は無意味にドクロマークで飾られ、どこか痛々しい。残る三人の端末も同じような有様で、クロはなぜか胸の奥に小さなざらつきを覚える。
「口座を表示してください」
短くそう言ってから、クロは次々と振り込みを行っていった。振り込みが完了すると、受け取れと促され、アレクたちは端末を閉じようとする。
「――確認しなさい」
平然とした一言に、四人は慌てて画面を覗き込み、次の瞬間、目を剥いた。
「おい、ちょっと待て……! 100万Cも振り込まれてるぞ!」
アレクが信じられないとばかりにクロを見やる。しかしクロは表情を崩さず、理由を簡潔に述べた。
「まずは身なりを整えてもらいます。服装も、態度も。そして今日は――掃除です」
「掃除……」
アレクは呟いた後、自分たちの周囲に視線を巡らせて気づく。荒れ放題の倉庫――不法占拠したこの場所は、ただの巣窟に成り下がっていた。
「……わかりました。まずはここを片付けます」
重い声だったが、そこには覚悟が宿っていた。残る三人も黙って頷く。
「明日の朝までに終わらせてください。その間に――事務所を兼ねた住まいを探してきます」
「いや、そこまでしてもらう訳には……」
「します。これは決定事項です。従業員の面倒を見るのも、私の責務ですから」
きっぱりと告げられ、アレクは息を呑む。だが次の瞬間、苦笑を浮かべて口を開いた。
「なら……これからは“社長”と呼ばせてもらえるだろうか」
「社長……」
クロは呟き、隣のクレアへ視線を送る。
「そうですね。私が社長なら、クレアは副社長。エルデは秘書でしょうか。アレクは主任。……そして――アンポンタンは平社員ですね。会社名は……“ブラックカンパニー”にしましょうか」
「クロ様、副社長とは?」
「秘書っすか……よくわかんねっすね」
クレアとエルデが顔を見合わせ、思わず小さく笑い合う。
すると、アンジュが遠慮がちに手を上げ、問いかけた。
「すみません、社長。その……“アンポンタン”って?」
「あなたたち三人の総称です。名前の頭文字を取って――アン」
クロはアンジュを指差す。
「ポン」
ポンセクレットを指す。
「タン」
最後にタンドールを示し、淡々と告げる。
「――まとめて“アンポンタン”。これからはそう呼びます」
一瞬の沈黙のあと、四人の顔に複雑な苦笑が広がった。恐怖と呆れと、ほんの少しの安堵が入り混じった笑いだった。