黒い影と最初の対峙
ギルドを出たクロは、ふと真上を見上げた。
「……飛べば早いけど。普通に行こう。変なことして目立って、自由を謳歌できなくなったら意味がないし」
軽く息を吐きながら、中央シャフトへと向かって歩き出す。
その足取りはゆっくりで、けれど確かな興奮がにじんでいた。
クロの視線が巡る先には、巨大な空間を螺旋状に走る住宅ブロックと農業エリア。どこまでも人工的で、それでいて、どこか夢のような景色。
「……すごい。これが……コロニーってやつか」
胸の内がじわりと高鳴っていた。昔、画面越しに見たアニメの中でしか知らなかった景色が、いま、自分の目の前にある。
「本当に回転して重力を生んでるんだな。今のこの世界なら重力制御とかあってもおかしくないと思ってたけど……これはこれで驚きだよ」
その呟きとともに歩くクロの姿は、どこからどう見ても、ただの十二歳前後の少女だった。だが――その中身は、何千年と生きてきた最強の存在、バハムート。
その正体を知る者は、誰一人としていない。
だから、なのかもしれない。クロの後方を、気配を殺してつけてくる影があった。命知らずの者か、それとも何か別の目的があるのか――まだ、それはわからない。
やがてクロは、中央シャフトへ行くための昇降エレベーターの前で立ち止まった。
そして、目を丸くする。
「……お金がいるのか」
小さな表示パネルには、利用料金が提示されていた。わずかな額とはいえ、クロの所持金はゼロだった。
「最短ルート、無理か……」
ぽつりと呟き、少しだけ思案する。
「……回って行くしかないな。歩いて。時間はかかるけど……仕方ないか」
そう言って向きを変えたクロの足取りには、わずかに覚悟の色がにじんでいた。
その背を、無言の影が静かに追い続けていることに――彼女はとうに気づいていた。
やがて、公園近くに差し掛かる。整備された遊歩道に低木の植え込み。だが今は、誰の姿もない。人影のない静寂だけが広がっていた。
クロはふと足を止め、くるりと振り返る。
「……いつまでついてくるんです? 何か私に用ですか?」
その声は淡々としていた。だが、はっきりとした警告が含まれていた。
「な、何のことだ? 俺は別につけてなんて……自意識過剰じゃないか?」
木陰から現れた男は、わざとらしく肩をすくめながら言い訳を口にした。
その後ろから、同じような風貌の男たちが数人、静かに現れる。
クロは一瞬だけ目を細めたのち、小さく息を吐く。
「いや、それそっちでしょ。なんで答えたんです? “私はつけてます”って言ってるようなものじゃないですか」
その言葉に、先頭の男がぐっと言葉を詰まらせ、顔を赤くした。
その様子に、周囲の男たちからくすくすと笑いが漏れる。
クロは表情を変えず、淡々と続けた。
「……で、何か用ですか?」
「なに、ちょっと来てほしい場所があるんだよ」
男の口ぶりには、明らかに裏があった。
クロは無言で端末を取り出し、カメラ機能を起動して録画を始める。
「いま撮影を開始しました。私は依頼を受けに向かっている最中です。これ以上ついてくるのであれば、実力行使に移ります」
淡々と告げたその声に、一瞬、男たちはひるんだ。
だが、すぐに顔をしかめ、不機嫌そうな笑みを浮かべる。
「問題ねえよ。俺たちもハンターなんだぜ? お前、初心者だろ? 優しく教えてやろうってだけだよ」
ニヤついた顔の男たちが、じわりと距離を詰めてくる。
「結構です。いま、はっきりと拒否を伝えました。これ以上近づかないでください」
「そう言うなって。ほら、俺たちのたまり場、案内してやるよ。気持ちよくなれるもんもあるしさ……な?」
ぞっとするような誘い文句に、クロは深くため息をついた。
そして、はっきりと言い放つ。
「ギルドの規定にもあります。強制的な勧誘や、それに類する威圧行為は禁止されています。これが最終警告です。私は明確に、拒否しています」
その言葉には、少女とは思えない静かな迫力が宿っていた。
「こっちは三人だ。お前は一人。わかるよな?」
男の口元が歪み、見下すような笑みを浮かべる。
だが――
「……わかりませんが、わかりました。実力行使します」
その一言と同時に、クロの姿が、すうっと掻き消えた。
「……は?」
それが、男たちの記憶に残った最後の言葉だった。
クロは瞬時に三人の背後へと移動し、静かに息を吐く。
そして――バハムートとしての“殺気”を解き放つ。
それだけで十分だった。
怒気ではない。殺意でもない。ただ、“この場に存在することすら間違いだった”と、本能が告げる――絶対的な圧。
クロはそれを、的確に、男たち三人だけに向けて放った。
脳が逃げろと叫ぶより先に、身体が反応する。視界が揺れ、思考が曇り、意識が闇に沈む。
男たちは、わずか数秒のうちに意識を失い、音もなくその場に崩れ落ちた。
「……お金を取るのはやめておこう。めんどくさいし」
ぽつりと呟いたクロは、倒れた男たちを一瞥もせず、何事もなかったかのように再び歩き出す。
その足音は静かで、整っていて、まるで風のようだった。
向かう先は、依頼人の住む住宅区画。少女の姿をしたその背中が、やがて雑踏へと溶けていく。
なお、三人の男たちが目を覚ましたのは――翌日の朝のことだった。