潜入任務と“タブー”の境界
翌朝、クロがギルドを訪れると、受付に立つグレゴが無言で視線を向けてきた。そして、いつもの無愛想な表情のまま、低い声で一言だけ告げる。
「ジンが呼んでいる。二階のデータ室だ。行け」
ぶっきらぼうに上を指差すその仕草に従い、クロは静かに階段を上った。二階の扉の前に立ち、軽く三度ノックする。
「どなた?」
中から聞こえてきたのは、穏やかで芯のある女性の声だった。
「クロです」
「どうぞ」
その返事とともに、扉が開かれる。室内は初めて訪れた時とほとんど変わらない、整然としたデータ室。ただ一つ、変化があるとすれば――ジンの姿だった。
青みがかったウェーブヘアは、光を受けて柔らかく揺れ、相変わらず誰もが振り返るほど整った容姿を際立たせていた。そこまでは、以前と変わらない。
だが――ひとつだけ、明らかに違っていた。
今日のジンは、視線の置き場に困るほど“攻めた”装いだった。胸元が大胆に開いたジャケット。その隙間から覗く谷間に、クロの視線が一瞬だけ吸い寄せられてしまう。
「……すみません。胸元を、隠してもらえませんか」
わずかに目をそらしながら、クロは静かにそう告げた。
「うふっ、クロの反応って本当に面白いわね。まるで思春期の男の子みたい」
くすくすと笑いながら、ジンはゆっくりとジッパーを引き上げ、胸元を隠す。
「ごめんなさいね。最初のリアクションが可愛かったから、つい悪戯したくなっちゃって」
「……襲われますよ」
真顔で返すクロに、ジンは肩をすくめながら笑みを深めた。
「ここでそんなことしたら、受付の旦那が黙ってないわよ?」
その言葉に、クロの眉がわずかに動く。
「……グレゴさんが、旦那……?」
「そう。“美魔女と猛獣”ってよく言われてるの」
冗談めかしつつも、どこか満更でもない様子のジンに、クロは小さく黙り込んだ。だが、思い浮かべるまでもなく、グレゴの姿が脳裏に浮かぶ。
短く刈り込まれた茶髪。百九十センチ近い巨体に、岩のように盛り上がった筋肉。その佇まいは、まるで森に棲む野生の獣のようだった。
(……森のくまさん、だっな。やっぱり)
ぽつりと、口の中で呟く。
「わたしから見ると、“美女とくまさん”ですけど」
「くまさんって、いいわね。今度からそれで呼ぼうかしら」
ジンは楽しげに笑いながら、手でソファを示す。
「さ、座って。話したいことがあるの」
クロは頷き、示された席に静かに腰を下ろした。姿勢を正し、黙ってジンの言葉を待つ。
「今日はね、コロニーのお掃除をお願いしたいの」
開口一番、ジンはそんな言葉を投げてくる。
「……清掃活動ですか? でも、街は綺麗でしたけど」
クロはこれまでに見てきた街並みを思い返す。整備された道路、清掃ドローンが頻繁に巡回し、目立った汚れもなかった。
「そうね、外から見れば確かに綺麗。でも、問題はもっと根の深いところにあるの」
ジンの声音が、少しだけ低くなる。
「クロは初日に、ひとつ犯罪組織を潰してくれたわね。その関連で、どうやら人身売買の疑いがある施設が浮かび上がってきたの」
クロの眉がわずかに動く。
「……なるほど。それで、その施設の調査を?」
「ええ。潜入して、情報を掴んでほしい。そして、“黒”だった場合――」
ジンは、わざと間を置いた。
「ここで言う“黒”は、あなたの名前じゃなくて、“真っ黒な犯罪組織”って意味よ?」
「それくらいは分かります」
無表情で即答するクロに、ジンがくすりと笑う。
「そう。なら話が早いわ。もし確定したら、できれば殺さずに全員確保してもらいたいの。できる?」
「…………いつも一階のテーブルで喋ってるハンターや、それこそ治安局の仕事じゃないんですか? こんな新人に任せるんですか?」
クロの言葉は的を射ていた。本来こうした任務は、新人が担うようなものではない。中堅クラス、あるいは治安局の担当案件でもおかしくないほど重い内容だ。
「そうね。クロの指摘は正しいわ。だから、まずそこから説明が必要ね」
ジンは軽く頷きながら、言葉を選ぶように続けた。
「まず“一階でサボってるハンター”たちは、使えないの。あ、ここで言う“使えない”は、単に実力が足りないって意味よ?」
「……なら、辞めさせたらどうですか?」
至極真っ当な意見に、ジンは肩をすくめてため息をつく。
「それが簡単にできたら、うちの旦那も苦労しないわよ。あの人たちにも、一応“必要な時期”ってのがあるのよ。それに命がけの仕事だし、軽々しく『やれ』とは言いづらいの」
「……私は言われてますが?」
ジンはくすっと笑い、視線だけでクロを見つめた。
「あなたは別。だって、最初の依頼で今いるハンター全員より、よっぽど優秀って見せちゃったんだもの。そりゃ期待もされるわよ」
そう言いながら、ジンはクロの前に三枚のモニターを浮かび上がらせた。
一枚目――猫探しの依頼で、至近距離からビームガンを撃たれたにもかかわらず、微動だにせず無傷で立つクロの姿。
二枚目――敵を一瞬で制圧し、無力化する冷静な動作。
三枚目――Aランクハンター、アレクの顔面をビンタ一発で壁をぶち破り顔面を崩壊させた決定的瞬間。
映像が再生されるたびに、ジンの口元には意地悪な笑みが浮かぶ。
「……これ見せられて、誰が“ただの新人”だって思うのかしらね?」
「では、治安局は? 本来なら、彼らの仕事なのでは?」
「依頼人なのよ。今回の」
あまりにも予想外の答えに、クロは一瞬言葉を失った。
――治安局が、依頼人。
その言葉が頭の中をぐるぐると回る。何故。何故、彼らが直接動かず、ギルドに裏から依頼を出すのか。
「……言っておくけどね、治安局が“やりたくない”からじゃないの。問題は――“動けない”のよ」
ジンの口調は柔らかいまま、しかし核心に触れるように静かだった。
「動けない……つまり、立ち入り調査が許可されないってことですか?」
「そう。正確には、“出来ない”。理由ははっきりしてないけど――まあ、察しがいいあなたならわかるわよね」
クロは少しだけ目を伏せ、推論を口にする。
「……汚職、ですか?」
「その可能性は高いわ。まだ関係者は特定できてないけど、このコロニーを管理してる国の役人か、それとも――国そのものかもしれない」
ジンはわずかに肩をすくめた。
「いずれにしても、公には手を出せない。だから――ギルドに、秘密裏の裏依頼ってわけ」
ジンは軽く肩をすくめながら、続けた。
「表沙汰にできない分、あなたに任せたいの。もちろん実力もあるけど……それ以上に、クロが“ノーマークな存在”だからっていうのが大きいわ。まさか新人で、それも子供の姿をした子が潜入するなんて、普通は思わないでしょ?」
「……了解です。ただし、“殺さず”なんですね?」
クロの問いに、ジンは真剣な表情で頷いた。
「ええ。今回は全員、生け捕りが前提。だから非殺傷武器の支給も用意してあるけど――要る?」
「必要ありません。拘束できる道具だけ、お願いします」
迷いなく返されたその答えに、ジンは少しだけ目を見開き、そして笑った。
「……ふふ、頼もしいわね」
そのとき、クロの端末が小さく鳴動した。
通知に目をやると、地図とデータのアイコンが次々と表示されていく。
「今、地図と依頼承認データを送ったわ。下のカウンターで、拘束用の『圧着式瞬間硬化スライム固定器:Type-SS』別名、《スライムタッカー》を受け取ってちょうだい」
「……スライムタッカー?」
初めて聞く単語に、クロが眉をひそめると、ジンが軽く笑いながら説明を加える。
「簡単に言えば、接着剤みたいなものよ。両手首と両足首に向かってスライムを発射して、一瞬で硬化させて拘束するの。専用の中和剤を使わないと、人の力でも機械でも外せないくらい強力。もともとは、コロニー外壁の修理資材だったものを、拘束用に転用したの」
「……了解です。ちなみに、そのスライムタッカー――もらえますか?」
淡々と訊ねたクロに、ジンはにっこりと笑って指を振る。
「ダーメ。支給品じゃないから、買い取ってね♪」
肩をすくめるジンに、クロは小さく息をついた。
「では、行ってきます。……ところで、グレゴさんとは夫婦なんですよね?」
扉に手をかける直前、ふと思い出したようにクロが尋ねる。
「そうよ」
ジンは微笑みながら即答する。
「グレゴさんはシゲルさんと幼馴染。そしてシゲルさんは、アヤコのおじいちゃん。ということは――」
クロが言いかけたその瞬間だった。
ジンの目元に、ふわりと笑みが浮かぶ。
「クロ。あなたも“女”なら……わかるわよね?」
その声音は柔らかい。けれど、空気が一変する。
圧。バハムートに匹敵する“何か”が、ジンの全身からじわじわと漏れ始めていた。
重く、柔らかく、決して抗ってはならない“女の圧”。
「……ええ。失礼しました」
クロは即座に頭を下げる。表情を崩さぬまま、静かに認めた。
「わかればいいのよ。よろしくね」
ジンは微笑みを崩さずに送り出す。
データ室を出たクロは、静かに階段を下りていく。
(……前世と変わらない。あれは――どこまでも“タブー”だ)
小さく笑みを浮かべながら、クロは一階の受付カウンターへと歩を進めた。