卵かけご飯と静かな誇り
クロの食事は、どこまでも静かで美しかった。鮭の身を箸で丁寧にほぐし、口に運ぶ。続けて、ご飯を一口。みそ汁をすする。そして、生姜焼きを一枚。余すことなく味わいながら、黙々と箸を進めていく。
やがて、すべてを綺麗に食べ終える。だが――足りなかった。本当に欲しているものが、まだそこにはない。
――卵かけご飯。
「すみません。ご飯のおかわりをいただけますか?それと……申し訳ないのですが、卵と、醤油をください」
クロはお茶碗を差し出しながら、丁寧に頭を下げた。
「いいよ。ちょっと待っててね」
アヤコが軽く笑いながらお茶碗を受け取り、キッチンへと向かっていく。その背を見送りながら、ふいにシゲルが声をかけてきた。
「そうだ、クロ。お前の“本体”の速度って、どれくらい出るんだ?」
ソーセージをつまみながら、シゲルは気軽な調子で尋ねる。
「正確に計ったことはありませんが……かなり、早いとは思います」
「なるほどな。で――Gはどうだ?打ち消せたりするのか?」
缶ビールを傾けながら、さらに問う。
「どうでしょう……私自身は、Gを感じたことはありません。でも、それが他者にも適用されるかは、試したことがないので……」
クロが素直に答えると、シゲルは一つ頷き、ビールを飲み干した。
「ふむ……ちょっと考えてみるか」
そう呟きながらソーセージを手に取ろうとした瞬間、皿の上が空になっていることに気づく。
「……あれ、もうないのか。じゃあ次は――枝豆、かな」
「ダメ!もうやめて!」
絶妙なタイミングで、アヤコの制止が飛ぶ。
アヤコの手には、よそったばかりのご飯と、もうひとつ。透明な袋に入った、小さなパック。
「はい、ご飯。それと、卵とお醤油も」
そう言って、アヤコはクロの前にそっと茶碗を置いた。
だが、クロの思考は――そこで停止する。ご飯はいい。問題は、その横に添えられた“それ”。
「……卵?」
「卵だよ?」
何気なく答えるアヤコに、クロはもう何も言わず、ただ黙ってパックを見つめた。
それは、真空パックのようなものだった。中には透明な白身と――やけに白っぽい黄身。
見た目は卵に似ている。だが、明らかに“違う”。
(……いや、ゼリーで学んだ。これは卵。今の世界では、これが“当たり前”)
そう自分に言い聞かせながら、クロはおそるおそるパックを手に取る。しかし、開け方がわからなかった。
「……これは、破ればいいんですか?」
慎重に尋ねるクロに、アヤコがくすっと笑う。
「ちがうちがう。両端を持って引っ張れば開くよ。ほら、こうやって」
アヤコは身振りを交えながら、軽く両手を広げて見せた。
クロはそれを見て、手元のパックをそっと持ち直す。言われたとおりに両端を引っ張ると――真ん中がきれいに裂け、パックの中身がとろりと茶碗の上に落ちた。
(なるほど……このパック、殻の代わりをしているだけで、やっていることは変わらないのか)
殻を割る動作と、パックを開く動作がどこか似ていて、それだけで少し――嬉しかった。
だが、その瞬間。
卵の黄身が、白かったはずなのに――みるみるうちに、鮮やかな黄色へと色を変え始めた。
(……これって、どんな原理?)
不思議に思いながらも、クロはそっと醤油を垂らし、箸でゆっくりとかき混ぜる。ご飯の熱と混ざり合い、香りが立ちのぼる。
そして、一口――
「…………これだよ!これ!俺が求めていたのは、これなんだ!」
思わず立ち上がりそうな勢いで、クロが叫んだ。
「……口調、バハムートに戻ってるよ?」
アヤコが呆れ半分、苦笑いを浮かべながらツッコミを入れる。
「……すみません、取り乱しました。ですが、これなんですよ!」
箸を握る手に力がこもる。
「今までの奇怪なゼリーには、確かに度肝を抜かれましたが……これは違う。これこそ、俺がずっと――求めていた味だ!」
「奇怪な……じいちゃん、私たちの食事って奇怪なんだって」
アヤコが茶碗を置いて、じと目を向ける。
「いやまあ……カルチャーショックってやつだろ。知らんけど」
シゲルが肩をすくめながら、フォークで最後のホッケをつつく。
そのやり取りもどこ吹く風、クロはすでに箸を動かしていた。
さっきまでの流れるような綺麗な所作とは打って変わって――卵かけご飯を、勢いそのままに、がつがつと掻き込んでいく。
「さっきまでとは大違いだね」
「だな」
アヤコとシゲルが並んで呆れ気味に見守る中、クロの箸は止まらない。白米の最後のひと粒まで食べ尽くし、ようやく満足したようにお茶碗を置いた。
「……満足です」
「米粒、口のまわりについてるよ」
アヤコが笑いながら指差すと、クロははっとして手で口元を押さえた。
「……すみません。我を忘れていました」
そう言って少しだけ照れたように笑うその姿に、場の空気は一層やわらかくなるのだった。
食事を終えたクロとアヤコは、自然な流れで食器を片づけていく。キッチンに茶碗を戻し終えると、アヤコが湯を沸かし、二人に温かいお茶を淹れた。
湯気の立つ湯呑みを手に、クロは静かにひと息つく。
「そういえば、お父さんに伝言がありました。グレゴさんから――『借りは返した』、とのことです」
その言葉に、シゲルが鼻を鳴らす。
「……そうか。あの野郎、“借り”だとよ。こっちは“貸し”が山ほどあるってのに、これですべて清算ってか……ま、よしとしてやるか」
「何を貸してたんです?」
クロの素朴な疑問に、アヤコも湯呑みを持ったままじっとシゲルを見つめた。
「たいしたことじゃねえさ。資材の横流しだな」
「たいしたことだよ!」
アヤコの鋭いツッコミが即座に飛び、クロも目を丸くする。
シゲルは、どこ吹く風といった顔で、湯呑みを傾けた。
「たいしたことじゃない。今、このコロニーは資材不足だ。余ってた分を、ちょっと横流ししただけだ」
「いやいやいやいや、完全にアウトだから!犯罪だから!」
アヤコが思わず声を張った。
「どの口が言うんだか。お前も違法やってるだろ?それを言うなら、クロの存在なんか、十分に法の外だぜ」
シゲルがにやりと笑ってそう言い放つ。その一言に、アヤコは返す言葉を失い、口を半開きのまま固まった。
「……まぁ、世の中ってのはな。綺麗ごとだけじゃ回らねぇのさ。なあ、クロの存在が一番それを物語ってるだろ?」
「そうですね。私たちは“違法家族”ですし。そのへん、追及されない前提で動いてます。されるなら――消します」
さらりと投げられた一言は、妙に真顔で、そしてあまりにも穏やかだった。
「クロ!それはダメぇーっ!!」
アヤコの絶叫が、リビング中に響き渡る。
「……冗談です。では、そろそろ帰ります」
何事もなかったようにそう言って立ち上がるクロに、アヤコが肩の力を抜いてついてくる。
「玄関まで送るけど……ほんと、シャレにならないよ~?」
苦笑まじりに言いながら、スリッパをつま先で揃えるアヤコ。
「クロ、今日はありがとな。また酒、買ってくれ」
シゲルがいつもの調子で手を振る。
その言葉に、クロの目がふと鋭くなった。――いまだ。今が最適のタイミング。
「構いません。あっ、ついでですが――ドックの鍵を、お借りしてもいいですか?」
「いいぞ。鍵データ、送っておく。だからまた頼むわ」
心の中で、ひっそりとガッツポーズを決める。情けない懇願などせず、自然な流れで目的を果たせたことに――小さな誇りと喜びがあった。
そんな思いを噛みしめながら、クロはアヤコと共に玄関へ向かう。
靴を履こうと身をかがめたそのとき、不意に背後から声が落ちてきた。
「……もしかして、それのために今日、奢るって言ったの?」
その何気ない一言が、あまりにも図星すぎて、クロの背に冷たい汗が伝う。しかし、顔色ひとつ変えずに、そっと目をそらし――一言だけ、静かに返した。
「違います」
誰にも気づかれない程度の動揺。だがその否定は、どこかぎこちなくもあった。
そして玄関に手をかけクロが振り返る。
「じゃあ、またねクロ」
「おやすみなさい」
軽く手を振るアヤコに一礼し、クロは静かに玄関を後にする。
夜の空気が、肌に心地よく触れた。まだ人工灯の残るコロニーの通路を、ひとり歩く。
「……美味しかった。けれど、なかなかのインパクトだったな。俺の知らない世界……そして、知っている世界。面白い」
誰に向けるでもない呟きが、ゆるやかに夜へと溶けていく。
やがてホテルに戻ったクロは、服を脱ぐと、そのままベッドに身を投げた。
目を閉じるその顔には、ほんのわずか――安堵と満足が滲んでいた。そして静かに寝息を立て、眠りの中へと沈んでいった。