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バハムート宇宙を行く  作者: 珈琲ノミマス
惑星に巣くうもの
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戦いの後の甘味

 そして数分後、カウンターの向こう――厨房から漂ってくる甘く香ばしい香りが、鼻先をくすぐった。


 おばちゃんは、手際よく皿を並べながら、それぞれの“おやつ”を整えていく。ふわふわに焼かれたホットケーキが二段重なり、その上にとろけるバターと蜂蜜が垂れていた。隣には香り高いカフェオレのカップ。立ちのぼる湯気が、甘やかなひとときを告げている。


 小さなガラス皿にはショートケーキ。白いクリームに赤い苺が映え、隣にはミルクが添えられていた。さらに大きなプリン。濃いカラメルがとろりと覆い、その横には鮮やかなオレンジジュース。


 クロは身を乗り出すことなく、ただ穏やかな微笑を浮かべながら静かに眺めていた。テーブルの上にいるクレアは、体をぴたりと固め、鼻先だけをひくひくと動かしている。一方エルデは、まだ出されてもいないのに両手を胸の前で握りしめ、今にも「よだれ我慢中っす」と口にしそうな顔で落ち着かない。


 おばちゃんは、そんな様子を横目でとらえ、にやりと口元を緩める。


「はいはい。もうちょいで出すから、いい子で待ってな」


 その言葉にクロは小さく頷き、クレアは尾をぴくりと動かす。エルデは元気よく「ハイッ!」と返したが、すぐさま隣のクレアにしーっと前足で口を押さえられてしまった。


 そんな光景を見渡しながら、おばちゃんは再びクロのほうへ身を乗り出すようにして確認した。


「本当に大丈夫なのかい? クレアにショートケーキ……普通のやつで?」


 その声音には、長年この居酒屋で厨房を守ってきた者ならではの、素朴な気遣いがにじんでいた。視線の奥には――「犬っぽいけど、人間用のケーキで本当に大丈夫なのかい?」という、当然とも言える疑問がわずかに揺れていた。


 クロはその意図を正確にくみ取り、やんわりとした笑みを浮かべる。


「ええ、問題ありません。この子は……ちょっと、特別な存在なんです」


 言葉に優しさを込めながら、そっとクレアの頭を撫でる。指先が毛並みに触れた瞬間、クレアは目を細め、喉の奥で控えめに鳴いた。くすぐったそうな、甘えるような仕草。クロの表情も自然と柔らぎ、まるで“家族”に触れるような、そんな温かさがそこにあった。


 おばちゃんは「まったくもう」といったように、軽く肩をすくめて息をつく。だがその仕草にはどこか呆れよりも微笑ましさのほうが色濃く混ざっており、手慣れた動きで皿を順にカウンターへと並べていった。


「そうかい……なら、信じるよ。ほら、出すからね。クロ、本当にいいんだね?」


 改めて重ねたひと言には、やはり気遣いと責任を忘れない“食のプロ”としての真剣さが滲んでいた。


 クロはコクリと頷く。


「はい。ちゃんとわかってます。……ありがとうございます」


 その返答は穏やかで、どこか誇らしげですらあった。


 ふわりと、甘く香ばしい香りが漂った。


 カウンターの上には、湯気を立てる厚みのあるホットケーキとカフェオレ。隣には、白い皿に載った小さなショートケーキとミルク。そして、鮮やかなオレンジ色のジュースと、巨大サイズのプリン。


 クロは、ナイフでホットケーキを一口大に切り取り、フォークでそっと持ち上げる。とろけたバターが染み込み、表面にはほんのりと焦げ目。香ばしさと柔らかさの絶妙なコントラストに、思わず目を細めた。


「……ん。あ、これ、ふわっふわですね」


 口に含んだ瞬間、舌の上で生地がしっとりと崩れ、じんわりと広がる甘さが、鼻に抜けていく。それに続くカフェオレのほろ苦さが、甘味を引き締めるようにして喉を通っていった。


 クロは一つ深く息をつくと、まるで仕事を終えた後のご褒美を味わうように、そっと笑みを浮かべた。


 一方でカウンターの上で、クレアは――自分の目の前に置かれた、小さなショートケーキをじっと見つめていた。


(ミルクの香り……それに、甘酸っぱい果実の匂い)


 白く柔らかな生クリームが、まるで雪のようにケーキの表面を包んでいる。その上にちょこんと乗った赤いイチゴからは、熟した果実の甘い香りがほのかに漂っていた。


 クレアは鼻先をそっと近づけ、クリームが付いてしまいそうな距離まで顔を寄せると――くんくん、と小さく鼻を鳴らして香りを確かめた。


(……甘い。でも、どこかくすぐったい感じ)


 そっと舌を出し、クリームをひとなめする。その瞬間、舌先にふわりと広がった――とろけるような甘さ。まるで泡のように儚く、けれど確かに心をほどいていく味だった。


 思わず目を見開いたクレアは、小さく息を吸い込むと、ケーキの端に小さな口を寄せ、一口だけ、静かにかじる。優しいスポンジの感触のあとに、ふわりとクリーム。そして、イチゴのきゅんとする酸味が一瞬だけ舌を引き締めた。


(……これは……幸せの味……)


 クレアは静かに瞬きをした。口元には、ほんのわずかに浮かぶ笑み。尻尾が、無意識のうちに勢いよく左右に揺れ始め――だがすぐ、はっとしたように動きを抑える。


 誰にも気づかれないように、控えめに、丁寧に――クレアは一口ずつ、まるで宝物を味わうようにケーキを食べ進めていった。


 クロの隣では、エルデが大きなスプーンを手に、ぷるんと揺れるプリンを掬い上げる。ためらいもなく口いっぱいに放り込み、頬をほころばせた。


「ん~~っ、やばいっす! これ、めっちゃ濃厚!」


 卵のまろやかな風味が舌に広がり、焦がしカラメルのほろ苦さが後を追う。滑らかな甘みが喉を流れ落ちるたび、エルデの頬はさらにゆるみ、表情は幸せそのものへと変わっていく。


「ぷはぁ……これ、飲み物っすね。プリンって。おやつっていうより、もう主食っす……」


 おどけたように言いながら、オレンジジュースをひと口。爽やかな酸味が口中を洗い流し、次の甘さを迎える準備を整える。


「いやー、これ帰ってきた甲斐あったっす……生きててよかったっす……」


 吐息のようにこぼれる言葉には、心の底からの安堵と幸福がにじんでいた。緊張で張りつめていた身体が、甘味と共にほどけていく。


 ――静かで、温かく、柔らかな時間。戦いを終え、依頼を果たした者たちが、それぞれの速度で甘味を噛みしめ、ほんの少しだけ心の力を抜く。


 そんな、何気ないひとときこそが。彼女たちにとって、かけがえのない“ご褒美”だった。

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