ひとくちのご飯と、溢れる記憶
「食うか」
その一言で、食事が始まった。アヤコもシゲルと同じホッケにしたようで、調理機で構成された身には骨がなかった。それをフォークで崩しながら、ご飯と一緒に口へと運んでいく。
(……違う)
クロの胸中に、静かにざらつくような感覚が広がる。見た目も香りも悪くない。味も、おそらく再現度は高いのだろう。それでも――胸のどこかが「違う」と訴えていた。
食材ではなく、その“食べ方”。骨を避けて箸でそっとほぐす、そんな細やかな動作は、ここにはなかった。けれど、それを責めるつもりはなかった。
――文化が違う。
先ほどの“料理”という名の構成。それを、目の前で、身体で、はっきりと知った。だからもう、言葉にはしない。否定もしない。
「いただきます」
クロは両手を合わせて、小さく呟いた。その手が、ほんのわずかに震えていたことに、彼女自身も気づいていなかった。それは、転生前――地球で日常のように繰り返していた、当たり前の所作。口にすることができただけで、胸の奥にほのかな温かさが広がっていく。
だが、その直後。
「何それ?」
シゲルの素朴な問いが、あっさりと静寂を破った。
「バハムートの儀式?」
アヤコがきょとんとした顔で首をかしげる。冗談めかしたその言葉に、クロは一度だけ瞬きをしてから、静かに目を伏せた。そして、ゆっくりと口を開く。
「これは、諸説ありますが……“命をその身に頂く”という行為の意味を、意識するための言葉です」
語調は穏やかだったが、その声音には――どこか厳かさがあった。そう言いながら、クロは箸を手に取る。その仕草は、何かを思い出すように、自然で、そして美しかった。
「そうなんだ。なんか、いい意味だね」
アヤコは素直に感心したように頷いた後、ふと手元を見て言葉を続ける。
「でもクロ、ハシでいいの?フォークもあるよ?」
「お前……それ、使えるのか?」
シゲルも思わず口を挟む。二人の声には驚きや心配が混ざっていたが、クロはただ静かに行動で返す。
箸を取り、お茶碗を左手に。自然な動作で、一口ぶんの白いご飯をすくい、口元へと運んでいく。その所作は滑らかで美しく、どこにも無駄がなかった。
「うわ……綺麗……」
アヤコが思わず息を呑む。シゲルも感心したように、ビールを置いてじっと見つめていた。だが、その声は――クロには届いていなかった。
(…………これだ)
一口。そして、もう一口。白いゼリーから構成された“ご飯”。けれど、それが舌の上でほぐれていく感覚は、確かにあの記憶の中にあるものと繋がっていた。
(この温度。この柔らかさ……この重み)
遥か昔の幼いころ、誰かが炊いてくれたご飯の湯気――その温度と、どこか同じだった。知らず知らずのうちに、視界がにじんでいく。
そして、一筋の涙が頬を伝った。それはただの一滴では済まず、次第に両目から、とめどなく静かに溢れ出す。
「クロ!」
驚いたアヤコの声が響く。だがクロは、首を横に振りながら、静かに言葉を返した。
「……いえ、大丈夫です。……ただ……」
声が震える。喉の奥がつまるようで、うまく言葉が出てこない。それでも、懸命に言葉を紡いだ。
「ただ、あまりにも懐かしくて……そして、嬉しくて……」
握った箸が、ほんの少し震えていた。
「これが、あのゼリーから出来ているとは思えないほど……懐かしくて……」
ぽつりと漏れた言葉に、自然と笑みがこぼれる。
「……懐かしい?」
アヤコがそっと問い返す。クロは一瞬だけ迷い、視線を落とした。そして、ごく小さく――それでも確かに、口を開いた。
「……転生前に……」
その呟きは、ちょうどモニターから響いたスポーツ番組の歓声に、あっさりとかき消された。
「ん?ごめん、今の歓声で聞こえなかった。なんって言った?」
アヤコがモニターの音量を少し下げながら訊ねる。クロは、かすかに笑って首を横に振った。
「……いいえ。独り言です」
そう答えると、そっと涙をぬぐい、もう一度、ご飯を口に運んだ。
「……美味しいです。本当に、あのゼリーからできているとは思えないほど」
ぽつりと呟くその言葉に、アヤコが笑いながら茶化す。
「やけに“ゼリー”を強調するね?」
その軽やかな言葉に、クロは答えず、静かに笑みを返すだけだった。アヤコもシゲルも、先ほどの涙の理由を深くは探ろうとせず、そっと話を流してくれる。それが、クロにとっては何よりありがたかった。
「しかし、器用だな。ハシをここまで綺麗に使えるやつ、初めて見たわ」
シゲルがご飯をフォークで食べながら、器用にホッケを頬張る。そのまま片手で缶ビールをあけ、ごくごくと飲み干した。
「じいちゃん……少しはクロを見習ったほうがいいかもね」
アヤコが呆れ顔で言うと、クロはほんのわずか、声を出さずに笑った。