汚染されたスパイア
そんなひとときが過ぎ、クロはソファから立ち上がる。
「――そろそろ、最後の確認をして帰りましょう」
そう言いながら視線を向けると、クレアが軽やかに跳ねてエルデの頭上に着地した。
「エルデ、20本すべてが正常に起動しているか、最終チェックをお願いします」
「了解っす。クレアの姉さ――……あ、クレアねぇで」
言いかけて、あわてて言い直すエルデに、クロが頷きながら言葉を添える。
「そう。クレアも短く呼ぶようにしてください。戦闘中に長い呼び名は不利ですから」
「ええっ、でも……“姉さん”の方が風格があって……」
クレアが少し不満そうに呟くが、クロが柔らかく微笑んで続けた。
「私と同じ呼び方です。“クレアねぇ”。どうでしょう?」
そのひと言に、クレアの耳がぴくりと動いた。
「……ふふ、それなら許します。エルデ、クレアねぇで許します」
「ありがとうっす、クレアねぇ!」
そんなやりとりを交わしながら、エルデはブリッジの操縦席に腰を下ろし、モニターを操作して各スパイアの稼働状態を確認していく。
「……あれ? 二本、反応がないっすね」
その報告に、クロはすっと表情を引き締めた。
「――原因はわかりますか?」
「ちょっと待ってっす……スキャン中……あ、出たっす。“巨大生命体の干渉”ってログが残ってるっすね」
「怪獣ですか……また宇宙サメでしょうか?」
「いや、違うみたいっす。“バルチャー”って表示されてるっす」
エルデが生態情報を呼び出し、ホログラフに映し出す。
「鳥型の怪獣っすね。全長十メートルで、羽ばたかずに宇宙を滑空するタイプ。あと……頭がツルッパゲらしいっす」
「……特徴の説明、最後の要るんですか?」
クロが呆れ混じりに返すと、クレアも思わず小さく吹き出した。
「敵じゃないなら、少し残念ですね」
「とりあえず、“破壊”はされていないっす。でも……接触による損傷の可能性はあるっすね。現地で再確認が必要かも。最悪、交換も視野に入れるっす」
エルデの報告に、クロはすぐに判断を下す。
「了解です。確認しに行きましょう。初期不良対策用に三本の予備がありますから、必要であればそれで交換して、故障品はギルドに返却しましょう」
「了解っす!」
そう返すと、エルデはすぐさまポイントへの航路を設定し、クーユータを滑るように前進させた。
しばらくして、現場の座標に到着。
再びクロはヨルハに乗って宙域へ向かい――そして、そこで目にした光景に、思わず足を止めることになる。
「……クロ様、これ……持って帰ります?」
ヨルハの声音は、いつになく切実だった。あからさまに“近寄りたくない”という気配を滲ませている。
クロもまた、その前でわずかに顔をしかめる。ノードスパイアは本来なら精密で無機質な構造物のはずだったが――目の前のそれは、もはや別物だった。
「……なんというか、処分したいですね。クーユータに積みたくないです」
吐息まじりの言葉に、クレアの耳もぴくりと動く。
「まさか、ここまでとは……」
スパイアの上面から側面にかけて、まるで塗り込められたかのような茶褐色の汚れ――乾いた斑点と、まだ粘性を帯びた何かが、機械に“星屑のように”散らばっていた。その見た目は、宇宙の静寂の中でなぜか一層際立ち、存在そのものが浮いて見えるほどだった。
「……見事に、汚物まみれですね」
クロの声がどこか遠くなる。衛生という意味でも、精神的にも、積載には強い抵抗があった。
「ヨルハ。これは……あなたの背には乗せたくないですね」
「ありがとうございます、クロ様。心より、感謝します」
即答するヨルハに、クロは思わず小さく吹き出しかけてから、真顔に戻る。
「――さて、回収は……いったん保留にしましょうか」
クロは、わずかに顔をしかめながらスパイアを見下ろした。
「とはいえ……これ、運がいいのか悪いのか。ここまでピンポイントで汚れるとは思いませんでした」
「ほんとうに、狙ったみたいに……」
ヨルハの声には呆れが混じっていた。
二人の視線の先には、想像以上に見事な“被害”を受けたノードスパイアが漂っていた。宇宙空間に浮かぶその姿は、まるで“わざと塗ったのでは”とすら思わせる不自然さだった。
「嫌ですが、近くで状態を確認します」
クロは小さく息を吐き、ヨルハの背を離れる。
スッと宙を滑るように移動し、スパイアの周囲を一周。真空であるにもかかわらず、なぜか“臭気”まで漂ってきそうな錯覚すら覚える。
「……うんだけに、運がないですね」
ぽつりと漏れたひと言に、ヨルハが小さくくぐもった音を漏らす。
クロは改めて姿勢を整え、エルデに通信を繋いだ。
「エルデ、状況が見えていますか?」
『見えてるっす……でも見たくなかったっす。バッチいっすね……』
通信越しの声は、妙に遠く感じるほどテンションが落ちていた。
「……処分します。その前に、映像だけ記録してください」
『はいっす。いま撮ってるっす……ズームしちゃったっす……うわぁ……』
間を置いて、エルデがもう一言。
『……これ、ギルドに報告する時の文面、めっちゃ悩みそうっすね……「怪獣の排泄物と思われる物体がノードスパイアに付着」って……書くんすかね……?』
その言葉に、クロは口元を押さえて目を伏せた。
「……それは、エルデに任せます。頑張ってください」
『ちょっ……クロねぇ!? むしろ一番キツいやつっす、それ!』
エルデの嘆きが通信越しに響く中、クロは小さく肩を竦め、何も言わずに記録の完了を待った。
その目の前には、精密観測機器という本来の用途から大きく逸脱した姿で、宇宙を漂う一本のノードスパイア。それはもはや“装置”というより、事故の残骸に近い――静かな無力感が、周囲の沈黙を包み込んでいく。
……そしてこの映像が、後にギルド本部で再生されたとき。誰が最初に堪えきれず吹き出すのか。その答えが明かされるのは、もう少し先の未来だった。