最初の設置ポイントへ
それからしばらくして、ブリッジ後方のリビングでくつろいでいたクロのもとに、通信が入る。
「クロの姉御。そろそろ最初のポイントっすよ」
呼びかけに、クロはゆっくりと立ち上がった。
「準備に入ります。――クレア」
名を呼ばれたクレアは軽く頷き、クロのもとを離れて自らの本体であるヨルハへと向かう。
クロはゴーグルを装着し、端末との接続を確認。続けてマスクとフードをかぶると、全身のスーツが一斉に密閉モードへと変化した。気密構造が自動的に作動し、数秒で完全な宇宙服仕様に切り替わる。
そのまま静かにリビングを出て、倉庫へと向かう。
「さて……ノードスパイアをエレベーターの近くに移しておきましょうか」
倉庫内に整然と並ぶ搬入用の箱。ノードスパイアはそれぞれ一本ずつ、四角いコンテナに収められており、複数人で持ち運べるよう両側には取っ手がついていた。
だが――
「……ふふっ、軽いですね」
クロはそのうちのひとつを片手で軽々と持ち上げる。その動きは実に自然で、まるで日常の一幕のようだった。
『クロの姉御。ポイント到着っす』
ブリッジからエルデの声が届いた瞬間、クロはピタリと動きを止め、通信越しに応じる。
「了解です。それと、今さらですが――」
一拍置いたのち、クロは小さく笑みを浮かべながら言葉を継いだ。
「“クロの姉御”は、長いので。呼び方を変えてください」
『いまさらっすか!?』
驚き混じりの声が、クロのゴーグルに組み込まれた骨伝導スピーカーから響いてくる。クロは苦笑を浮かべた。
「というより、今のうちにです。戦闘中に“クロの姉御”では、いちいち間が抜けますから」
『確かに……戦闘中に呼ぶには長いっすよね。じゃあ、“クロねぇ”でいいっすか?』
遠慮がちなエルデの声に、クロはあっさりと頷いた。
「それでいいですよ」
『了解っす、クロねぇ!』
どこか安心したような声が返ってくる。次の瞬間――
『で、クレアの姉さんと通信は、どうしたらいいっすか?』
その問いに、クロはふと沈黙し、少しだけ視線を逸らす。
「…………その問題、忘れてましたね」
思わず漏れた小声に、クレアが「え?」と首をかしげる。クロは眉をひそめ、静かに続けた。
「……クレアには、端末がありませんでした。つまり、通信ができないということです」
クロが静かに告げると、通信越しにエルデが苦笑混じりに返す。
『それ、けっこう致命的じゃないっすか……どうするっすか?』
「面倒ですね……とりあえず、帰ってから本格的に考えます。今は……艦内放送で伝えてください」
『了解っす』
エルデが端末を操作すると、数秒後、艦内に少し抑えめなアナウンスが流れる。
『えー……クレアの姉さん。ポイントに着いたっす。今からハッチ開けるっすから、艦の上部搬出入口まで来てほしいっす』
通信が切れると同時に、クロの足元――倉庫の下層から、低く重たいハッチの駆動音とわずかな振動が伝わってくる。
ヨルハは、天井部の格納アームが伸び宇宙に出るとアームが開き解放され、軽やかな動作で艦の外へと躍り出た。
『クロねぇ、クレアの姉さんが出たっす』
「了解。こちらも、倉庫の搬出入口を開けます」
クロは倉庫区画の制御端末に指を滑らせ、搬出準備に入る。気密確認を済ませ、内部の空気がすべて抜けきったのをモニターで確認したのち、搬出ハッチをゆっくりと開いた。
次いで、ノードスパイアをエレベーターに載せ、自身も同乗して艦上へと移動する。
ハッチを抜け、外へ出たクロの目の前には――宇宙空間に静かに佇み、お座りの姿勢で待つヨルハの姿があった。
「クロ様。お待ちしておりました」
澄んだ声が、ヘルメット内に響く。
「そんなに時間はかかってませんよ。それより……背中、貸してください」
言うと同時に、ヨルハは小さく鳴くように返事をして、姿勢を伏せる。
その律儀な動作に、クロは微笑を浮かべた。
「ここは宇宙ですから、そこまで丁寧にしなくてもいいんですけどね」
冗談めかしながら、クロはゆっくりとノードスパイアを持ち上げる。全長5メートルの機器を、まるで軽々とした荷物のように片手で扱い、ヨルハの背へと安定させる。続けて、自らもその背にまたがり、重心を確かめながら姿勢を整えた。
「……では、行きましょうか」
クロが背中を軽く撫でると、ヨルハは鋭く宇宙を蹴る。次の瞬間、星々の海を裂くようにして、その巨体が音もなく宙域へと駆けていった。
――その様子を、ブリッジから見守っていたエルデが、モニター越しに思わず呟く。
「クレアの姉さん、めっちゃ嬉しそうっすね……クロねぇ、振り落とされないか心配っすけど」
だが、その口調には不安というよりも、どこか和んだ笑みがにじんでいた。遠ざかるヨルハとクロの背中を、エルデは目を細めて見送っていた。