器と名前、そして帰る場所
大量の買い物を終えたはいいが――そこで、一つ問題が発生した。
「どうするの。買いすぎて、もう持てないわよ」
呆れた声でアヤコがカートを見つめ、シゲルが頭を下げる。
「……面目ない」
申し訳なさそうな声に、アヤコはため息をついた。
その隣で、クロが静かに問いかける。
「あの……どこか、人気がなくて監視も届かない場所はありますか?」
突然の提案に、アヤコとシゲルは顔を見合わせる。やがて、売場の死角になっている通路を見つけ、クロをそちらへ案内した。
「で、どうするんだ?」
「――しまいます」
そう告げたクロは、何の前触れもなく空中に別空間の裂け目を出現させた。
買い込んだ食材や酒、つまみが、重力を無視して次々と吸い込まれていく。見慣れぬ現象に、アヤコはぽつりと呟いた。
「……万引きしないでね」
「しません」
即答するクロ。その声に、悪びれる気配も冗談もなかったが、アヤコはそれを咎めることなく、ほんの少しだけ微笑む。
まるで、本当の姉が妹を見守るときのように。
「便利だな、その空間。俺たちでも使えたりするのか?」
シゲルが興味ありげに問いかけると、クロは少し首を傾げる。
「……わかりません。初めから使えていたので、どう発動するのか、うまく説明できないんです」
その答えに、シゲルはふうっと鼻を鳴らした。
そして収納を終え、踵を返そうとしたクロの背に、シゲルの声が飛ぶ。
「クロ。ちょうどいいから、食器だけでも買っておこうぜ。お前が選べ。お前専用のやつだ」
「……私の、食器」
思わずクロが一歩足を止める。その横に立ったアヤコが、にこりと笑って手を取った。
「そうだね。もう少ししたら一緒に暮らすんだし、準備しておこうよ」
言葉よりも先に、その手の温もりが伝わった。拒む理由は、もうなかった。
クロはアヤコに手を引かれるまま、静かに生活雑貨のコーナーへと入っていく。
生活雑貨のフロアは、明るい照明と柔らかな木目の床に包まれていた。棚には、陶器、硝子、金属、布――さまざまな素材の生活用品がずらりと並び、整然としながらも、それぞれの場所に“暮らしの匂い”が宿っていた。
(……これが、“生活”。懐かしい)
クロはふと立ち止まり、小さなマグカップを手に取る。取っ手には花の彫刻、縁には金の装飾。温かさがわずかに指に伝わってくる気がして、それが“誰かの温度”のように思えて――胸の奥がわずかにざわついた。
そんな中、アヤコがにこにこと茶碗を掲げてやってきた。
「クロ、これなんて可愛いんじゃない?」
差し出されたのは、小さな動物の絵が描かれた、丸くて柔らかな色合いの茶碗だった。
「……いえ、私は子供ではないので、これはさすがに……」
視線をそらしながら答えるクロ。その反応に、アヤコは頬をふくらませる。
「見た目にはぴったりなんだけどな~」
そう言いながら、しぶしぶ茶碗を棚に戻す。その背を見つめながら、クロは小さく息を吐いて棚の奥へと歩を進めた。
そして――手に取ったのは、漆黒の器。
艶のない黒一色に、わずか一本だけ、細く走る赤いライン。
(黒と赤。……俺の名、そのまま)
茶碗、皿、湯呑み、カップ。すべてが統一され、整然と並ぶそのセットに、自然と手が伸びた。
「私はこれでいいです」
その瞬間、胸の奥に輪郭が浮かぶ。
(これが、俺のもの。……誰のでもない、“俺だけの器”)
迷いのない言葉に、シゲルが顎をさすりながら微妙な顔をした。
「まさに名前の通りだけどな……ここまで徹底されると、なんか痒いわ」
それでも、クロは静かに微笑んだ。
「クロ・レッドライン。頂いた苗字と、私の名前。……良い物がありました」
そう言って、選び取った食器をそっと胸に抱え、大切そうに支払いを済ませる。
「よし、帰って飯にしよう」
シゲルがカートを押しながら満足げに言った。
「そうだね。……もう買う物ってない? クロ」
アヤコがふと振り返る。クロは小さく首を振りながら、まっすぐに答えた。
「私はないです。でも……お姉ちゃんの欲しいものはありますか? お父さんには、もうお酒とおつまみを買いましたし」
その言葉に、アヤコの目がふわりと和らぐ。
「私は今はいいよ。それより、また今度一緒に買い物に行こうよ♪」
屈託のないその笑顔に、クロも自然と頬を緩めた。
「……はい。行きましょう」
言葉に力はなかったが、そこには確かな温もりが宿っていた。
そのやり取りを少し離れて見ていたシゲルが、くくっと喉を鳴らす。
「本来ならクロがおばさんになるんだが……“お姉ちゃん”ねぇ」
おどけたような口調に、アヤコが即座に睨みを利かせる。
「じいちゃん、うるさい」
鋭い視線に、シゲルは両肩をすくめてカートを押し元の位置に戻した。
そのあと――クロは、気づかぬうちに、さっき選んだ食器をもう一度胸に抱えていた。そっと寄せるその手つきは、まるでそれが“自分の居場所”であるかのようだった。
やがて三人は、エアカーへと乗り込み、静かに出発する。
帰る先は――“自宅になる家”。
始まったばかりの、けれど確かに進み始めた“日常”が。クロの中に残っていた、“世界をぶち壊してやりたい”という衝動を――静かに、そして確かに、溶かしていった。