白ゼリーと世界の崩壊
シゲルの運転するエアカーは、高架道を滑るように進み、静かに総合デパートのタワー式立体駐車場に到着した。クロたちは光に包まれた建物群をひと目見渡しただけで、迷うことなく食品売り場へと足を運ぶ。
だが――
浮遊エスカレーターを下り、目的のフロアに降り立ったその瞬間、クロはぴたりと足を止めた。
――違う。知っている“食品売り場”ではない。
照明に照らされて整然と並ぶ棚。その一つひとつに収められているのは、どれも常識を逸脱した色と形の物体ばかりだった。
粘膜のようにとろりと揺れる植物。金属殻に覆われた実体不明の果実。液体のように震える透明な球体。
視覚も嗅覚も、感覚までもが翻弄される。クロにとって、それらは“食材”というより、未知の生命の標本にしか見えなかった。
「これは……本当に、食材ですか?」
思わず漏れた問いに、シゲルは当然のように振り返った。
「食材だが?」
そう即答されても、クロの目は信じきれないままだった。
札には確かに“野菜”と書かれている。だが、その下に並ぶのは、黄緑色に震えるゼリー状の物体。触れずとも伝わってくる奇妙な弾力と香りは、“野菜”のイメージからあまりにも遠い。
隣の棚には“肉”と記された札。そこに並ぶのは真っ黒で艶やかな塊。ゼラチン状で、まるで工業用の合成ゴムのように見えた。
そして、クロの目を奪ったのは“加工プレート”と書かれた黒い板だった。
「この黒い……ゴムみたいなものは?」
指で押すと、表面は軽く凹み、すぐに元に戻る。その奇妙な反応にクロが眉をひそめたところで、隣からアヤコの声が飛んだ。
「ゴムじゃないってば。これ、専用の自動調理機に入れると、いろんな料理になるんだよ。栄養バランスも味も完璧! 失敗なしの超優秀プレート!」
胸を張るアヤコとは対照的に、クロはそっと目を伏せた。
「……そう言えば、私はこの世界で“食材”というものを、見たことがなかったです」
ぽつりと零した声は、どこか遠い空を見るような響きを持っていた。
その静けさに、アヤコもシゲルも、言葉を失う。
クロは静かに視線を落とした。瞳の奥に浮かぶのは――地球。記憶の彼方にある、畑の風景。土の匂い、葉が風に揺れる音。
本来なら、自分とは無縁なはずの情景。それなのに、なぜか懐かしく、胸を締めつけるような感情が湧き上がってくる。
シゲルが眉を寄せる。
「そうだったな……お前の元の星って、どんなもんがあったんだ?」
クロはすぐには答えず、首を傾げ、そして静かに横に振った。
「……わかりません。バハムートとして、その文化には興味がありませんでした。食事も必要ありませんでしたし。分身体を作ろうとも、思っていなかったんです」
言いながら、眉間にかすかな苦笑が浮かぶ。
それでも――作っていたのだ。全長270mを超える大剣を。本来は“爪楊枝”。金属のような漆黒の鱗を編み上げて意味もなくカッコいい大剣風に造った、意味不明な代物。
思い出すだけで、こめかみが痛む。
(……もしかすると、“食欲”など様々な欲望のような衝動を女神に封じられていたのかもしれない)
心の奥でふと浮かんだその思いに、クロは目を細めた。
そして、視線を正面に戻す。
「……本物は、ないんですか?」
それは、記憶のどこかで感じた“食”の原風景に向けた、最後の問いだった。
「本物って?」
アヤコが無邪気に首を傾げる。
その瞬間、クロの胸の奥が静かに冷えた。――確信に近い、敗北の予感。
「……おコメは?」
おずおずと口にしたその言葉に、アヤコはにこりと笑って答えた。
「それなら、あの白いゼリーだよ。調理機に入れれば、ご飯になるの」
――ご飯になるの。
その瞬間、クロの膝が音もなく床に落ちた。
視線の先にあるのは、無機質な白い塊。誰もが便利だと称賛する、万能の食料。
だが――
その場に崩れ落ちたクロの姿は、まるで世界に裏切られた少女そのものだった。
かつて星を監視していた神獣が、いま、“白ゼリー”ひとつに宇宙の真理を見失いかけていた。
そして、その胸の奥には――世界を一度、ぶち壊してやりたい衝動が、静かに、確かに、渦巻いていた。
膝をついて項垂れるクロを横目に、アヤコとシゲルは淡々と買い物カートに食材を放り込んでいた。
「クロ。何をそんなに落ち込んでるのか知らないけど、行くよ」
振り返りながら、アヤコがあっさりと言い放つ。
「そうだぞ。今から酒とつまみ、普段は手が出せんようなもんを買いまくるんだからな」
その言葉に、クロはうつむいたまま静かに呟いた。
「私は今……絶望してます。世界を破壊したいほどに……」
その声には確かな哀切がにじんでいた。だが、アヤコはまったく動じない。
「はいはい、ご飯食べてからにして。おいしいからさ」
そう言ってクロの腕を無理やり引き、立たせる。足取りこそ重いが、引きずられるようにして歩き出すクロ。
そして――酒類コーナーに到着すると、クロは思わず立ち止まり、目を見開いた。
そこには、缶ビールやワイン、日本酒を思わせる透明な瓶酒がずらりと並び、整然とした陳列が懐かしい記憶を呼び起こしていた。
「……ここはまともだ」
ぽつりと、感慨のように呟く。
「いや、まともじゃないよ。どう考えてもおかしいからね」
すかさずアヤコがツッコミを入れるが、その直後、シゲルの動きが豹変した。
「さて、まずは普段用のおビールをケースでストック。高級酒のウィスキーに、ウォッカもいっとくか。あとは贅沢に高いビールとコメ酒を瓶で……」
やたら手慣れた動作でカートを酒で埋めていく。
「じいちゃん買いすぎ! 少しは遠慮してよ!」
アヤコの叫びも虚しく、シゲルはどこか誇らしげに背筋を伸ばす。
そして、沈み込んでいたクロが再び呟いた。
「……良いです。今、この絶望を埋められるのなら……いくらでも……」
その声音には、本当にわずかだけれど、諦めにも似た覚悟と、ほんの少しの――救いを求めるような響きがあった。
「なら遠慮なくいくぞ。たまにはこの高いプレートも……よし、いつものやつとまとめて買っとくか」
つまみプレートを片っ端からカートに放り込み、気づけば山のように積み上がっていた酒とつまみ。その光景は、もはや宴会場の搬入準備にしか見えない。
「じいちゃん! お終い! もうやめてってば!」
アヤコの制止の声が響くと、ようやくシゲルの手が止まる。
「……まぁ、いいか。満足だ」
ご機嫌そうに頷き、カートを誇らしげに眺めるその姿は、まるで駄菓子屋で好きなものを買い込んだ子どものようだった。
「じいちゃん、ほんと子供みたいだよね~」
呆れ混じりにアヤコが笑う。だが、その隣――クロだけは、うつむいたまま動かなかった。
そして、ぽつりと、ひとこと。
「……おコメ……」
その声は誰にも届かず、棚の間に静かに溶けていった。