一膳の理由、そして鍵
アヤコたちは、今日の営業を終えようと、静かに片付けを始めていた。
「ねえ、じいちゃん。クロ、今日も来ると思う?」
アヤコがにやにやしながら尋ねると、シゲルは右手をちらりと見下ろす。そこには、昨日クロからもらった指輪がはめられていた。
「いや、さすがにこの時間は来ないだろ。……もし来たら、俺はあいつをバカだと思うな」
「だよねぇ~。でもさ、もうちょっとしたら一緒に暮らすことになるんだよ? そしたら、今みたいにだらけた生活、できなくなっちゃうかもだよ」
「うるさい。あいつが俺に合わせればいいんだ。なんたって――父親だからな」
堂々と胸を張るシゲルに、アヤコはくすりと笑う。
「でも、私たちってさ……昨日で一気に変わっちゃったよね。いい意味で」
「ああ。なんだか、面白いよな。しかもこれからは、あいつがうちの稼ぎ頭になるわけだ。もう俺たち、働かなくても済むかもしれないな」
そう言って、シゲルはどこか満足げに息を吐く。
「……夢だったビール風呂、いけるかもしれん」
「はぁ? なにそれ」
呆れ声を上げるアヤコに、シゲルは得意げに答えた。
「ビールで浴槽を満たして浸かるんだよ。シュワシュワして、気持ちよさそうだろ」
その“夢”に、アヤコは深いため息をつき、現実を突きつける。
「……できるわけないでしょ。コロニーの水質浄化システムにまで影響が出たらどうするの?」
その言葉に、シゲルはほんの少しだけ考える素振りを見せたあと、肩をすくめた。
「そんなヤワなもんじゃないとは思うが……ま、やめておくか」
シゲルはため息をつき、さっさと片づけを始めた。
「今日の飯はどうするかな……めんどくさいし、どっか食いに行くか?」
「ダメ。節約しなきゃ」
即座に却下するアヤコの声に、シゲルが不満げに肩をすくめたそのとき。
「では、私がおごります」
扉の方から静かな声が届いた。
「ほら、そうやって無駄遣いを……って、クロォ!?」
思わず振り返ったアヤコの声が、一気に跳ね上がった。
「はい。私が奢ります」
クロの静かな声に、アヤコとシゲルの手が止まる。
「……お前、マジで来たのか。いや、今回は“お願い”じゃないなら文句はないけどな」
シゲルが呆れたように言ったその横で、アヤコがじと目を向ける。
「じいちゃん、さっき“来たらバカだ”って言ってたじゃん」
責めるような視線にも、シゲルはまったく動じなかった。むしろ開き直ったように胸を張る。
「バカかアヤコ。奢りだぞ。お願いじゃないんだ。バカじゃない。これは親孝行ってやつだ! なら遠慮なく食うしかないだろ」
満面の笑みで宣言するシゲルに、クロは図星を突かれたように黙り込む。
「でもさ、急に奢りってどうしたの?」
訝しむように問いかけるアヤコに、クロはしれっと言い放つ。
「昨日のお礼です。狩りも順調でしたので」
「……狩りって、つまり稼いだってこと? じゃあ支払いしてよ」
「まだ足りてません」
即答するクロの真顔に、アヤコはため息を吐く。
だが、シゲルの反応はまるで違った。
「大丈夫大丈夫。支払期限はまだ先だし、飯代ぐらいで減るような額を稼いだわけじゃないんだろ?」
「はい。320万ほど稼ぎましたので」
その額を聞いた瞬間、シゲルの笑顔が一段階、輝きを増した。
「よし、それなら――何を食うかだな!」
「そこは、私に合わせていただければ。おコメのおいしいお店がいいです」
「……コメぇ~? お前はなんでそんなにコメなんだよ。せっかくだし、豪華に高級店で行こう!」
「じいちゃん、はしたないよ。奢りなんだから文句言わない!」
アヤコの容赦ないツッコミが飛ぶが、シゲルはまるで気にしていない。
「バカ野郎。奢りだからこそ、普段食えない店に行くのが正解なんだろうが!」
どうしても高級路線を捨てきれないシゲルと、いつもの調子でそれを押さえ込もうとするアヤコ。そのやりとりを、クロは静かに見つめていた。
「あの、それは次回でお願いします」
クロが、いつも通りの淡々とした口調で続ける。
「今回は、数千年ぶりの食事ですので……おコメが食べたいんです」
その一言に、場の空気が止まる。
「……反対できねぇ……」
シゲルがぽつりと呟き、黙り込む。
「じいちゃん。クロはおコメが食べたいんだよね? だったら、私が作るよ」
アヤコがすっと前に出ると、シゲルは何か言いたげに口を開きかけたが、クロの返答を待つように押し黙った。
「料理、できるんですか?」
クロが静かに尋ねると、アヤコは胸を張る。
「できるよ。何が食べたい?」
「卵かけごはん」
その即答に、アヤコは一瞬固まり――そして、ぼそりと漏らす。
「……それ、料理って言わないから……」
「なら、おコメに合う料理をお願いします」
クロが続ける。
「買い物代は私が出します。お父さんも、お酒やおつまみなら好きなものを選んで大丈夫です。お姉ちゃんも、何か欲しいものがあれば……」
その言葉を聞いた瞬間、シゲルの目が輝いた。
「よし行くぞ! さっさと店閉めて、買い物だ! エアカーに乗れ!」
「じいちゃんっ!」
アヤコが咎めるように声を上げる。だが、シゲルは一歩も引かずに言い返した。
「バカ。どうせコメが食いたいなら、いい食材で作ってやれ! そのくらい、してやれよ」
その正論めいた押しに、アヤコは唸るように口を尖らせる。
「う~ん……なんか、うまく言いくるめられた感あるんだけど」
疑わしげな目をクロに向けながら、念を押すように尋ねた。
「クロは……ほんとにそれでいいの?」
「はい。むしろ、こちらからお願いしたいくらいです」
静かにそう言って、クロは小さく頭を下げる。
「……顔を上げてよ」
アヤコはため息をついたあと、微笑んで胸を張った。
「お姉ちゃんに任せて!」
胸をぽんと叩いて笑うアヤコの姿に、クロはほんの少しだけ視線を伏せた。
その明るさがまぶしく思えるほど、胸の奥に申し訳なさがわき上がる。
本当の目的は――貸ドックの鍵。
昨日、断りを入れている手前、また「やっぱり必要でした」と言い出すのが、どうしようもなく気恥ずかしかった。
だからこそ、食事を口実にした。そして今――その優しさを正面から受け止めるのが、少しだけ怖くなっていた。