閑話 ノーブルワール・ゲイツ 9 逃避行の幕開けと迎賓の門
マーケット開催を数日後に控えたある日――ノーブルは、軍用高速艇を駆って誰よりも早く小惑星オンリーワンへと到着していた。接近通知を受けて、惑星の迎接システムが通信を開く。映し出されたのは、整った燕尾服と静かな笑みをたたえた執事――オンリーの専属サポートであるトバラだった。
「おや、ノーブル様。マーケットまでは、まだ数日ございますが……いかがなさいました?」
落ち着いた声が艦内に響く。
到着タイミングは、ちょうどオンリーワン本体が宙域に入った直後という絶妙な早さ。本来なら、このようなタイミングで貴族が乗り込んでくる理由は――ない。
それでも、ノーブルは涼しい顔を装いながら、どこか目を泳がせて言葉をつないだ。
「いや、オンリーとトバラの顔が見たくなってな。……まあ、あとは、早めに視察をしておこうかと思ってな」
いつもより少しだけ語尾が不自然だった。だが、トバラはその様子を崩すことなく、穏やかに笑みを深める。
「左様でございますか。しかし、確か今は――皇帝陛下のご生誕式典が間近だったかと記憶しておりますが?」
「っ……!」
一瞬だけノーブルの表情が強張る。見透かされている――それは確信に近かった。トバラの声音には、皮肉も詮索も含まれていない。ただ淡々と、静かな事実だけを指先で突きつけてくるような“柔らかい圧”があった。
「い、いや。それよりも――仕事だ。……それに、あんな式典、椅子に座って永遠と挨拶を見せられるだけだぞ? だったら、現場で動いていた方が、帝国のために――」
口早に並べる言葉は、どこか“逃げ”の気配を含んでいた。それを遮るように、モニターの向こうでトバラが静かに告げる。
「――という名目の“逃亡”でございますな」
ノーブルの口が、ピタリと止まった。
「………………」
わかっている。わかっていたとも。だが、こうも穏やかに断定されると反論すら難しい。バツの悪い顔で沈黙するノーブルをよそに、トバラは変わらぬ笑みをたたえながら告げる。
「問題ございません。A-1ドックにて、お出迎えの準備を整えております」
「……毎回思うんだが、私のまわりの知り合いって、どうしてこうも一言多いのかしらね」
軽く毒気を込めた皮肉に、執事はあくまで柔らかく答える。
「それは――ノーブル様に“信頼”を寄せているからにございます」
通信が切れる寸前、トバラの口元に浮かんだのは――冗談とも本音ともつかない、どこか含みのある笑みだった。その余韻を引きずるようにして、高速艇はゆるやかに着陸態勢へと入り、小惑星オンリーワンのA-1ドックに静かに収容される。
エアロックのランプが赤から緑へと変わる。それを確認したノーブルは、肩に軽く荷物を引っかけて、ハッチを跨ぐようにして外へ出た。機械油と冷却材の匂いが混じるドックの空気。その中央で、変わらぬ仕立ての燕尾服を着た執事が、微動だにせず出迎えていた。
「ようこそ、オンリーワンへ――ノーブル様」
「ええ、世話になるわ」
荷物を片手に応じたノーブルは、整然と並ぶ照明を見上げながら小さく溜め息をつく。
「……でも毎回思うんだけど、この規模の小惑星を動かすって、やっぱり面倒じゃない?」
トバラは微笑を崩さず、少しだけ目を細める。
「何を仰いますやら。帝国の“例の要塞”に比べれば……この程度、まるで“観賞用の月”のようなものです」
「……それを言われると、何も言えないのよね」
肩をすくめたノーブルの言葉に、トバラは控えめに笑みを返す。こうして、ふたりのいつもの“定型”とも言えるやり取りが、静かに幕を開けた。
「……今年こそ、禁制品の取り扱いは控えてくれないかしら?」
ノーブルが歩きながらぼやくように言うと、隣を歩くトバラは微笑を崩さぬまま首をかしげる。
「それは、あくまで“売り手”次第でございます。ここオンリーワンでは、その自由も尊重されておりますので」
「いや、何度も言ってるでしょ……あとから摘発に回る身にもなってほしいのよ。正直、探し出すのが面倒なの」
まるで過去に何度も繰り返された問答のように、ノーブルは眉をひそめた。だがトバラは一拍の間をおき、丁寧に――しかししれっとした声で応じた。
「でしたら……どうか、今年もお力を尽くしくださいませ」
「……開き直ったわね、今」
「いえ、激励でございます」
ノーブルは心底呆れた表情でため息をついたが、その目の奥には、わずかながら楽しげな光が宿っていた。そんな空気のまま、ふたりは無言でエレベーターへと足を運ぶ。無機質な昇降音の中、ノーブルがふと思い出したように問いかけた。
「そういえば……この宙域での開催なら、シゲルは来るのかしら?」
「はい。すでに招待状はお届けしております。日程的にも、間違いなくご到着されるかと」
トバラの答えに、ノーブルは小さく頷く。
「……そう。なら、あの子にも目を光らせておかないと」
そう呟いた瞬間、エレベーターが静かに停止し、扉が左右に開いた。その先に現れたのは、精緻な彫刻が施された重厚な扉。帝国の伝統と、この小惑星の“格式”を感じさせる、まさに迎賓の間口。
トバラが一歩前へ出て、扉の前で丁寧に一礼する。
「――オンリー様がお待ちでございます」
「……うん。じゃあ、行くわ」
ノーブルは小さく息を整え、前髪を指先で整えながら呟いた。
「……さて、今回は無事に終わってくれるといいけどね」
その声には、祈りのような希望と、少しの予感が混じっていた。