閑話 ノーブルワール・ゲイツ 1 クリスタルドラゴン、任務開始
ノーブルは、ひどく憂鬱だった。
近衛軍専用の小型艇。その無音に包まれた個室で、彼女はまたひとつ、深くため息をついた。手元にあるのは、命令書――とされる一通の書簡。だが、その差出人は皇帝であり、同時に父でもある男だった。
記された内容は、あまりにも軽い。
『孫のためにクリスタルドラゴンの結晶花を作ったよ。お願い、取りに行ってきて♡』
それだけ。
文末には、冗談のようなハートマーク。まるで私信のつもりなのか、公文書の体裁を装う気配すらない。
「………………近衛軍を、こんなことで動かすなんて……いや、皇帝の命令だ。形式的には、正当な任務……なのだろうが」
絞るような声が、室内の静寂に吸い込まれていく。ノーブルはこめかみに指を添え、ゆっくりと目を閉じた。
命令ではある。だが、実態は明らかに私的な用事。あの人――お父様は、いつだって説明をしない。思考の裏も見せない。相手の都合や立場など、まるで意に介していないかのように。
「……お父様のこと、いまだによくわからない……」
息をつくように漏らしてから、背もたれに深く体を預ける。ホロディスプレイには、濃紺の大気を纏った惑星がじわじわと近づいていた。リモリア――今回の目的地。
任務の名目は、「クリスタルドラゴンの結晶花」を受け取りに行くこと。ただ、それだけ。だが、その簡潔さの裏には、父の意図と無言の圧がひしひしと漂っていた。
なぜ、このタイミングなのか。なぜ、自分なのか。
ノーブルは、皮肉気に肩をすくめた。
「……自由に動けるのは、私だけ。他の兄弟は、領地の運営で身動きが取れない。だからって……私用に軍を動かすとは」
再び視線を落とすと、そこには何度読み返しても変わらぬ文面と、軽薄なハートが躍っていた。
向かうのは、リモリアに本拠を置くクォンタムクリスタル社。この惑星にしか存在しない希少鉱物――クォンタム・クリスタル・クォーツを基に、特殊な育成フィールドで長期間かけて“成長”させる動的結晶。それが、クリスタルドラゴンの結晶花と呼ばれる花だ。
音、光、空気中の微振動を吸収し、わずかに応答するその構造は、完全な無機物ではなく“半生体”。生きているわけではないが――見る者にそう錯覚させるほどの反応性と存在感を備えている。
それほど繊細かつ高価な品を、“孫のため”というだけで作らせ、近衛軍を差し向けて取りに行かせる皇帝。
「……やはり理解に苦しむ」
溜息の底に、呆れと諦念が混じる。
室内は相変わらず静かだった。響いているのは、艦の航行音と、自身の思考だけ。ノーブルは窓の外に目をやる。漆黒の宇宙に瞬く星々――その下に広がるのは、まだ見ぬ問題か、それとも……
(……せめて、トラブルにならなければいいが)
そう願ってみても、心のどこかが告げていた。この任務が、「ただの受け取り」で済むはずがない――と。
その予感を裏付けるかのように、通信通知が割り込んだ。差出人は、副官のアトラ。映像がホロディスプレイに浮かび上がると、そこには、いつになく焦りの色を浮かべた彼女の顔が映っていた。
整った緑色の髪は少し乱れ、手ぐしでかき上げたような痕跡が残る。表情も声も落ち着いてはいるが、どこか普段とは違う。
「ノーブル様。緊急事態です」
「どうした、アトラ。海賊か?」
淡々と尋ねるノーブル。だが、返ってきた表情には、それほどの緊迫感はない。むしろ――戸惑いのような、言葉にしがたい不可解さが滲んでいた。
(……彼女が、海賊相手にここまで乱れることはない。となれば――よほど変な事態、か)
内心で推察を巡らせる間にも、アトラはわずかに口ごもりながら言った。
「先ほど、クォンタムクリスタル社から連絡がありまして……見ていただいた方が早いかと」
彼女の言葉と同時に、ホロ空間に新たな映像が再生される。投影されたのは、クリスタル社の加工施設。その天井を突き破るようにして、異様な“何か”が鎮座していた。
透き通る外殻。陽光を受けて、七色の光を放つその姿は――幻想としか言いようがなかった。だが、幻ではない。そこに確かに“存在している”。
四肢は結晶の刃のように鋭く、翼は繊細な光の羽ばたきを思わせた。背から伸びた尾は、空気を切るようにゆったりと揺れている。
「……目の錯覚ではなく?」
「はい。結晶変位したようです」
アトラの声に、わずかな緊張が混じる。映像の中、クリスタルドラゴンは動かず、ただその存在感だけが画面を圧していた。
「まさに“クリスタルドラゴン”だな……だが、乗らんぞ」
冗談めかした呟きに、アトラが即座に応じる。
「はい。この小型艇ではとても輸送できません。専門の搬送部隊を呼ぶ必要があります」
「なら、すぐ手配を。あとは――誰も近づけさせるな。施設全体を封鎖。……情報も、徹底的に統制しろ」
命令を的確に告げると、アトラは小さく敬礼し、通信は切れた。
残された静寂の中。ノーブルは深く椅子にもたれ直し、天井を仰いでぽつりと零す。
「……なんで、こんな目に……」
それは、誰にも届かぬ独り言。ただ“花を取りに来ただけ”の任務が、いつの間にか異常事態に変貌したことへの、ささやかな愚痴だった。
――だが、これは始まりに過ぎなかった。