閑話 ノア&ウェン 6 涙のあとと、始まるマーケット
ノアがゆっくりと目を覚ますと、顔に柔らかいものが押し当てられているのに気づいた。ほのかに甘い香りの奥に、どこか機械油の混じった匂いが漂う。
(……え、夜? しかも、何か顔に……柔らかい……)
まだ寝ぼけた頭で状況を整理しようとするが、やがて自分の頬に触れる感触が何なのかに思い至る。
(ま、まさか……これ、胸……!?)
急に心臓が跳ね上がる。しかも、ウェンの両腕がしっかりと自分を抱き寄せていて、動こうとしてもまるで解けない。顔はまさに胸元に埋まっていて、目の前にはウェンの顎と口元。彼女の静かな寝息が、そっと肌に触れてくる。
(ど、どうしよう……! いや、ノーブラ……とか考えてる場合じゃない!!)
恥ずかしさと焦りとが入り混じり、ノアの頭は一瞬で真っ白になった。
「うっ、んんっ……」
ノアの上から漏れる小さな息。その吐息が頬にかかり、ますます体がこわばる。
(お願い……早く起きて、ウェン! これ以上は無理……!)
必死で目を閉じていると、神さまが味方してくれたのか、突然ウェンが「ガバッ」と身体を起こした。
「ヤバい! 寝ちゃってた……ノアはまだ寝てるよね?」
慌ててノアの顔を覗き込むウェン。ノアが目を閉じているのを見て、ほっと安堵の息を漏らす。
「よかった~……思いっきりおっぱい顔につけてた。危なかった……」
照れくさそうに呟くウェン。だが、ウェンの膝の上で“寝たふり”を続けているノアの心臓は、いまにも爆発しそうなほど高鳴っていた。
(もう……起きるタイミング、完全に逃した! それに、女の子が“おっぱい”って……さらっと言うなよ……!)
ノアは思わず拳を握り締めたくなる衝動を、必死にこらえていた。
「でも、もう昼か。そろそろ起こしてみようかな」
ウェンがぼそりと呟くなり、思いきり体をひねってノアを太ももの上から転がす。
「うわっ!」
突然の衝撃にノアの声が漏れる。ウェンはその声に驚きつつも、さっきまで膝枕をしていたとは思えないほど素早い動きでソファの端まで距離を取っていた。まるで何事もなかったかのように平静を装っているが、その頬はほんのり赤い。クロが見ていたら「なかなかのスピードですね」と感心したかもしれない。
ウェンは目を逸らしつつ、顔を赤らめながら努めて自然な声でノアに尋ねる。
「どうしたの? そんな大きな声出して」
ノアも顔を赤らめながら、しどろもどろに返す。
「いや、なんか急に衝撃が走ったような……そうじゃないような……」
最後はだんだん声が小さくなっていく。
ウェンはそっぽを向いたまま、小さく息を吐いてから切り出す。
「……ねぇ、マーケット行こうよ」
ノアは急いで体勢を整え、真面目な顔で頷く。
「うん、行こう。僕はウェンの護衛だし、絶対に守るよ」
「そういうのはいいから! 早く行こ!」
いきなりの宣言に動揺しつつ、ウェンは恥ずかしさをごまかすように声を上げると、さっさとリビングを出ていった。ノアも慌てて立ち上がり、その後を追いかけた。
ふと気がつけば、ノアの顔に残っていた涙の跡も、ウェンの太ももを濡らしていた涙も、すっかり乾いていた。
ほんのりとした気恥ずかしさを胸に抱えたまま、二人の“マーケット初日”がようやく本格的に始まった。
ランドセルを出て、改めてマーケットの全景を見渡す。徹夜作業で頭がぼんやりしたまま見た時には気づかなかった光景が、今になってはっきりと目に映りはじめる。
巨大なオンリーワンの空間の中には、さまざまな人種――肌の色も体格も異なる人々が、色とりどりの衣装に身を包み、思い思いに行き交っている。無数の店舗が隙間なく並び、中央の広い通路には活気と熱気が渦巻いていた。買い物袋を両手に下げて嬉しそうに歩く人、露店で値引き交渉に夢中な人、商談がまとまって思わず笑顔になる人……。
そのすべての表情が、ここにしかない自由さと熱量を物語っていた。
コロニーで見慣れた規則的な日常とはまるで違う、雑多で生命力に満ちた世界。そのスケールと騒がしさに、ウェンもノアもただただ圧倒される。
「……すごい人の数。みんな楽しそうだね」
ウェンが立ち止まり、改めて広場全体を見渡す。
「うん。この層全部が商店なんだ……本当に規模が違うよ」
ノアも思わず感心して、ため息混じりに頷いた。
初めてのマーケット体験に胸を躍らせながら、二人は歩幅を自然と揃え、肩が触れそうなほど寄り添って通路を進んでいく。
その様子を、少し離れた場所からアヤコとクロが眺めていた。
「復活してるじゃん、あの二人……クロ、ちょっとあとついて行かない?」
アヤコは意地悪く唇を釣り上げ、面白そうに声をかける。その隣でクロは小さく苦笑し、静かに首を振った。
「やめましょう。二人にしておいてあげたほうがいいですよ。面白い気持ちはわかりますけど」
「……クロに、忠告されるとはね!」
アヤコはむくれたように言いながらも、どこか楽しげだった。
そんな二人のやりとりなど知るよしもなく、ウェンとノアはマーケットの賑わいの中、肩を並べて歩き続けていた。