閑話 ノア&ウェン 5 許しの夢と、寄り添う膝枕
地獄のような陳列作業が終わるころ、マーケットの天井を覆う巨大なスクリーンが、擬似的な朝焼け色に染まりはじめていた。最後の一品を棚に並べ終えた瞬間、開場を告げるチャイムが、華やかに鳴り響く。
「ギリギリだった……」
アヤコが大きく息を吐くと、シゲルは満足そうに店内をぐるりと見渡した。
「店番は俺と、護衛にクレア。それとマスコットのレッドだけで充分だな」
そう言いながら、シゲルはゆっくりとウェンとノアに視線を送る。
(なんだろう、今の間。絶対、何かある……)
ウェンが胸の奥でそんな疑念を覚えた次の瞬間、シゲルの表情がほんの少しだけ悪戯っぽく変わった。
「いいか、動くときは必ず二人一組。ウェンはノアとだ」
決定事項のように告げられ、思わずウェンとノアは顔を見合わせる。二人の頬がほんのり赤く染まったが、誰もそこには触れようとはしない。ただ、その場にいるメンバーの何人かの口元が、揃ってニヤリと歪むだけだった。
(くそ~。見世物にされてる気分だけど……文句がないのが悔しい)
そう思いながら、解散の合図とともにアヤコとクロは連れ立って店回りへと向かう。ウェンはさすがに疲れ切った顔でノアに向き直った。
「とりあえず、一回船に戻って寝よ。お昼になったら、お店を見て回ろうよ」
ノアは静かに頷き、二人は並んでランドセルへと帰っていく。背後から誰かの会話が聞こえた気がしたが、ウェンにはもうそれを気にする余力が残っていなかった。瞼は重く、意識はまどろみに沈んでいく。
なんとかランドセルに戻ると、ウェンはそのままリビングのソファに沈み込む。ノアはドリンク調理器でホットミルクを淹れ、そっとウェンの前に差し出した。
「ありがとう。あ~、あったかくて体に染みる……」
マグカップを両手で包み込み、ウェンは一口飲むと、安堵のため息を漏らす。ノアも隣に腰を下ろし、自分のカップを手に微笑んだ。
「大変だったね。でも、これがマーケット……いや、お店を始めるってことなんだね。一から作るのって、思ったよりずっと大変だったよ」
「いやいや、本当はもっと時間をかけてやるもんだから。ここが特別なだけ~」
眠気で目をこすりながら、ウェンが苦笑混じりにそう返す。
「部屋に戻って寝る?」
ノアが尋ねると、ウェンはもう限界だったらしい。マグカップをテーブルに置きながら、
「いや……ここ……で……すぅ――」
言い終わる前に、すとんと寝息を立て始めた。
ノアは苦笑しつつ、ウェンのカップを片付けてから、少し離れた場所に座り直す。
(……濃い航海だったな。しかも、なんだか心にも一区切りつけられた気がする)
そんなことを思いながら、幸せそうに眠るウェンの寝顔を静かに見守った。
「僕も――誰かを守れたんだ。よかった」
そう呟き、ノアもまた瞼を落としかける。
「……しかし、可愛い寝顔だな……」
小さな独り言を最後に、ノアの意識もふっと眠りへと落ちていった。
静かな時間とやわらかな空気が、二人を包み込んでいく。
やがて、ウェンがゆっくりと目を覚ました。
(あれ……寝ちゃってた? なんか太ももが……重い?)
ぼんやりとした頭で下を見ると、誰かが自分の太ももで眠っているのに気づく。ソファから少し離れて座っていたはずのノアが、どういうわけか――まるで引き寄せられるように、ウェンの膝枕で眠っていた。
「えっ、ちょ……」
思わず声を上げかけたそのとき、ノアの頬を涙が伝っているのに気づいた。
「え、なんで……?」
ノアは苦しそうに顔をしかめ、小さく震えながら、かすかな声で呟く。
「……ごめんなさい……僕は……取り返しのつかないことを……」
懺悔とも後悔ともつかない言葉が、途切れ途切れにこぼれる。
ウェンは驚き、そして胸の奥でなにかが引っかかるのを感じたまま、しばらく黙り込む。
「……ごめん、ごめん、僕のせいで……」
ノアは眠ったまま、謝罪の言葉を何度も繰り返していた。
(ノア……そういえば、私、ノアの過去のこと、知らないんだ……)
そう思いながら、泣き続けるノアの髪にそっと手を伸ばす。優しく、ゆっくりと撫でながら、声をかけた。
「何があったのか、私にはわからないけど……今はもう大丈夫。私がいるから、安心して」
過去の重さを知らなくても、目の前で苦しんでいるノアを放っておけなかった。
「今のノアならきっと許されると思う。だから……今だけは、ゆっくりおやすみ」
ウェンの声は静かで、どこまでもあたたかかった。その優しさが、ようやくノアの心に届く。ノアの涙は少しずつ止まり、表情も苦しげなものから、徐々に安らかな寝顔へと変わっていった。
太ももの上に感じるノアの体温が、じんわりと自分の身体に伝わってくる。守られる側だった自分が、今はこうして誰かを支えている――そんな小さな誇らしさと、温かな重みを、ウェンは静かに噛みしめていた。
「……何やってるんだろ、私。柄じゃないのにな」
小さく笑いながらウェンが呟くと、ノアが夢の中でぽつりと呟く。
「……お母さん……」
「お母さんじゃないけどな~」
そう言いつつも、ウェンの手はやさしくノアの髪を撫で続ける。その動きは、もう止まらなかった。
そして、穏やかな安堵に包まれながら、ウェンも再びまどろみに沈んでいく。ノアの上にそっと身を寄せ、まるで守るように、二人で静かに眠りについた。