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バハムート宇宙を行く  作者: 珈琲ノミマス
閑話 それぞれの目線
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閑話 ノア・シンフォス 3 スープの奥に、記憶の声

 ノアはレンゲを手に取り、そっとラーメンのスープをすくった。


 湯気の向こうに淡く透ける琥珀色。その液体を一口、口に含む。


 その瞬間――記憶が、溢れ出した。


 初めて家族と東京に行ったときのこと。子ども心に期待していた“東京らしい料理”。煌びやかで派手な、テレビで見たようなグルメ。けれど、連れて行かれたのは、どこか薄暗い路地裏の、古びた中華店だった。


 不満ばかり口にしていた。もっと有名な店がよかった。もっと派手で、写真に残したくなるような料理が食べたかった――。


 そんな文句を並べ立てる自分に、父さんは苦笑しながら一生懸命説得していた。「地元の人が通う店が、本当に旨いんだ」と。母さんはその様子を隣で見守りながら、こっそりと、文句ばかり言う自分を動画に収めていた。


(……顔は、思い出せない。だけど――)


 その時、自分がどんな気持ちでいたか。何を話して、どんな空気が流れていたか。そのすべてが、今のこの一口の中に、そっと沈んでいた。


 ノアは静かに箸を取り、麺を持ち上げる。中太の縮れた麺に、琥珀色のスープが絡みつく。湯気に包まれた麺先を、少しだけ冷まし、慎重に――すする。


 ズズッと、静かな音を立てて麺を啜る。やわらかく、優しく、舌の上でほどけていく。


 塩味と甘味の絶妙なバランス。醤油の深みに、脂の丸みが寄り添うように溶け合っている。それは“旨い”のひと言では到底足りない――魂の奥、何か深い場所にまで届いてくる味だった。


 そして、もうひとつの記憶が、ふいによみがえる。


 あのときも、目の前に並んでいた料理はこれと同じ。醤油ラーメンと半炒飯。それだけの、ごく普通の組み合わせ。


 僕は文句ばかり言っていた。「こんなの地元でも食べられる」「東京らしいものじゃない」――。どこにでもある食事だと決めつけ、期待外れだと拗ねていた。


 そんな僕に、店主は笑って言った。どこかで聞いたことのあるような、でも妙に説得力のある一言。


「食ってみな、飛ぶぞ」


 叱るでもなく、怒鳴るでもなく。ただ、あの時の店主は、にこにこと笑顔を浮かべていた。


 しぶしぶスープをすくい、口に運んだとき――驚きが一気に込み上げた。


 地元の味だって負けてない。きっとそうだ。でも、それでもなお、引けを取らないどころか、何かが違った。


 あまりにシンプル。なのに、どうしてこんなにも深く胸に沁みるのだろう。


 記憶の中の“僕”がすすった麺と、今この瞬間にノアがすすった麺が、確かに重なっていた。時を越えた二人が、ひとつの味で繋がっていた。


 そして、あの時と同じ言葉が、自然と唇からこぼれた。


「……うまい」


 それは、記憶の中で初めて素直になれた“僕”への返答。そして同時に、今ここにいるノア自身の心からの実感だった。


 だが――涙は流れなかった。いや、流してはいけない気がした。


 なぜなら――


「あの味には、涙の味なんてなかった。ただ、ただ美味しかったって記憶だけ……。悔しいけど、両親の顔は思い出せなかった。けど……よかった。全部が消えてたわけじゃなかった」


 目の奥がわずかに熱くなる。けれど、それだけだった。


 涙ではなく、確かな“温度”だけが、胸の奥にぽつりと灯っていた。


 ノアは箸を取り、隣の半炒飯を軽くほぐす。米粒の間に空気を通すように混ぜ、そのひと口を口に運ぶ。


 ……味は、少し違っていた。記憶の中の炒飯とは、調味も火加減も異なる。けれど、不思議と記憶は繋がっていった。


(あの時、父さんと母さん……笑ってたんだろうか。たしか、声は……ほっとしてた気がする。けど――)


 なぜか、思い出すのは店主の顔ばかりだった。


「美味かっただろ」


 ――そう言って笑った顔。


 父でも母でもない、ただラーメンを出しただけの人の笑顔が、いまも鮮やかに残っていた。


 ノアは炒飯に添えられたスープを、レンゲでひと口啜る。その温かさを喉に落とし、またラーメンへと箸を戻す。


 麺をすする。もう一度、スープを味わう。神に消されたはずの記憶が、わずかでも戻ってくるような感覚。


 涙がにじみそうになるのを必死でこらえながら――ノアは、ただ食べた。


(父さん、母さん……顔が思い出せなくて、ごめん。あの時、いっぱい迷惑かけて……それでも連れてきてくれて、ありがとう。僕は今、ここで生きてます。だから、心配しないで)


 その思いを胸の奥にそっとしまい込み、ノアは一心不乱に箸を動かした。


 完食するまで、ただひたすらに。止まることなく、言葉もなく、食べることだけに集中した。


 ラーメンも、炒飯も、最後のスープの一滴まで。すべてを食べ終えたとき、ノアの胸にはひとつの確信が生まれていた。


 ――ここは、きっと、また来ることになる。


 この店は、ノアの行きつけになりつつあった。

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