閑話 ノア・シンフォス 1 秘密基地の鍵
章の一区切りを迎えましたので、ご報告です。
本日より、ノア・ウェン・ノーブル、それぞれの視点による閑話編をお届けしてまいります。
閑話の更新は、8時・12時・20時の1日3話投稿で進めさせていただく予定です。
閑話が完結次第、いよいよ新章へと入ってまいります。
これまでクロの裏側でノアが何をしていたのか、ウェンはどんな動きを見せていたのか、そしてノーブルはどう決断するのか――それぞれの視点で描かれる日々を、楽しんでいただけたら幸いです。
なお、1日4話更新をご希望の方がいらっしゃいましたら、感想等でご意見をお寄せいただけると嬉しいです。
皆さまに少しでもお楽しみいただけるよう、これからも丁寧に物語を紡いでまいります。
引き続き『バハムート宇宙を行く』をよろしくお願いいたします。
ノア・シンフォス。
それは、自分として新たな一歩を踏み出すための名前だった。そう胸に刻み、生きていくことを心に決めたそのとき、シゲルから一つの鍵を手渡される。
「平屋で狭いが、一人で住むにはちょうどいい。ギルドにも近い。地図データは送っておく。自由に使え。ただし……汚ねぇぞ。掃除はしてくれ。家電はそのまま使っていい。壊れてたら――遠慮なく最新に買い替えろ」
そうして迎えた翌朝、ギルドで登録を済ませ、初仕事となった迷子の猫探しをなんとか成功させたノアは、肩の力を少しだけ抜いて新たな住まいへと向かう。
「レッドライン一家には……頭が上がらないな」
ぽつりと呟きながら、端末に表示された地図を頼りに目的地へと足を向ける。
たどり着いた先。そこにあったのは、たしかに平屋だった。
けれど――家というより、巨大なコンテナをいくつも繋げたような、どこか秘密基地を思わせる造り。その無骨な外観を見上げながら、ノアは眉をひそめた。
「……たしかに平屋だけど。家というより避難所……いや、避難所だった」
どこか呆れを含んだ声でそう口にし、ノアは鍵を握り直した。
玄関を探して家の周囲を回ると、それは裏側にひっそりと隠されていた。扉の位置も、塀の構造も、まるで外部から発見されないよう意図的に配置されている。その工夫の細やかさに、ノアは静かに息を呑んだ。
「……本当に、逃げ込むための家なんだ」
呟きながら、鍵穴に鍵を差し込み回す。カチャリと控えめな音が鳴り、玄関のロックが外れたことを知らせた。
ノアは扉に手をかける。だが――びくともしない。
押しても引いても、まるで壁に手を当てているような感触しか返ってこない。鍵はたしかに回った。だが――扉はびくともしなかった。
ノアは眉をひそめたまま、扉の縁に視線を這わせる。無言のまま、沈黙する壁と対峙し続けた。
「開かない……え?」
そう呟いたとき、脳裏に浮かんだのは“避難所”という言葉。この家が単なる仮住まいではなく、本当に“何かから身を隠すため”に造られたのだとすれば――。
ノアは玄関まわりの壁を改めて注意深く見回した。すると、一見無機質な金属パネルの継ぎ目に、ごく小さな鍵穴が隠されているのを見つけた。
「まさか、こっち……?」
恐る恐る鍵を差し込み、ゆっくりと回す。瞬間――壁の一部が静かに、しかし確かな手応えで横にスライドした。
現れたのは、さきほどまで“玄関”だと思い込んでいた扉とはまるで違う、本物の入口。重厚な防音扉に施錠機構、さらに足元には簡易の除塵装置までついている。
「いやいや……ここまで徹底してるって、どれだけ怖かったんだろう。シゲルさんの奥さん……」
苦笑まじりにそう呟きながら、ノアはその防音扉をくぐった。
中にあったのは、ジャンクショップに併設された作業場よりはずっと狭いが、工具と材料が整然と並んだ小さな制作スペース。
その奥には居住区へと続く内扉があった――まるで“籠城”するために設計されたかのように、壁と一体化した厚みのある鉄扉。簡易な住居のはずなのに、その堅牢さは一種の緊張感を帯びていた。
ノアはそこで靴を脱ぎ、扉をそっと開ける。
「……全然、汚くなんかない。むしろ綺麗で……家電も家具も、新品みたいに見える」
驚きの声を漏らしながら部屋の中へ足を踏み入れ、視線をゆっくりと巡らせる。家具は最低限だが、どれも質が良く清潔で、壁も床も埃ひとつない。――だが。
「……窓が、まったくない」
その事実に気付き、ノアは息を呑む。密閉された空間。確かに外からは見つけられない構造だった。
部屋の壁に備えられたスイッチを押すと、天井の照明が柔らかく灯り、同時に空調が作動を始めた。微かな風の流れとともに空気が巡るのを感じ、ノアは少しだけ安堵の息をつく。
ふと視線を落とすと、テーブルの上に一枚のメモが置かれていた。真っ白な紙に、くせのある筆跡でこう記されている。
『いいか、貸だぞ。働いて良い家に住め』
その短い一文を読んで、ノアは思わず笑みを漏らした。
「……本当に、シゲルさんには頭が上がらない」
声は穏やかで、どこか誇らしげだった。――背中を預けられる大人がいる。その重みを、今日ノアは知った。