変化の未来と、笑顔の誓い
そんな余韻を振り払うように、クロが〈第一診察室〉のドアへ歩み出る。
「クロ。ちゃんと説明してから動いてよねっ!」
アヤコに怒られながらも、クロはしれっと指を伸ばし、ドアをノックする。コン、と音が響いた瞬間、スライドドアが静かに開き――
「どうぞ」
落ち着いた女性の声が、室内から聞こえた。その後は、まるで時間が巻き戻されたかのように、同じやり取りが繰り返される。
エルデはポットへと入り、横たわり、光に包まれながらスキャンを受ける。そして――すべてが終わったあと、医療端末に連動した壁面モニターに、彼女の全身データが映し出された。
骨格、臓器、神経網、筋肉密度。すべてが繊細なホログラムとなって、淡く立体的に空中へ浮かび上がる。
「すごいっすけど……恥ずかしいっすね」
エルデは、黒く染まった一部の髪を無意識にかきながら、じっと自分の映像を見つめていた。
コートは、手元の端末を静かに操作していたが、やがて顔を上げる。その表情には、心からの安堵の色があった。
「……問題はなさそうね。深刻な異常は見当たらないわ」
少し肩を落とすように息を吐き、それから続ける。
「ただ、軽い栄養失調の兆候が出てる。それと――接種義務のナノワクチンが打たれていないみたいね」
その口調は柔らかく、どこか優しげだった。
「とはいえ、身体は全体的に安定しているわ。ただ……成長速度が、平均を明らかに上回ってる。これについては、精密検査をすればもう少しはっきりすると思うけど――今のところ“異常”と断言するものじゃないわ」
コートはそう言って、モニターに視線を戻すと、再び優しく微笑んだ。
「良かったわね。大きな問題はなさそうよ」
そして、ひとつ確認するように問う。
「もし気になるようなら、精密検査をしてもいいけど……どうする?」
コートの問いかけに、エルデは小さく首を横に振った。
「いや、大丈夫っす。この体で、姉御たちと一緒にいられるなら、それでいいっす。……でなきゃ、自分、きっと会えなかったっすから」
迷いのない笑顔だった。その言葉に、コートもふっと微笑み、手元の端末を操作して――ひときわ目立つ注射器を取り出した。
「じゃあ、次はナノワクチンを打ちましょうか」
その瞬間、エルデの表情がぴしりと固まった。
「……え、それっすか? めっちゃぶっとくないっすか、それ!?」
「大丈夫よ。痛くないわ」
「いやいやいやいや! あんなぶっとい注射が痛くないわけないっすって!」
腰を引き、じりじりと距離を取ろうとするエルデの肩を、アヤコがあきれたように押しとどめる。
「ほら……なんか、“最後まで笑っていたい”って……さっき言ってなかった?」
「うぐぅ……っ、いや、それ! そんな別れのセリフみたいに言ってないっすよ!? やめてほしいっす、姉さん!」
アヤコはぽかんと目を丸くして、それから曖昧に首をかしげる。
「……あれ? 口に出してたわけじゃないのかな。変だな、なんか……ふっと浮かんできただけど」
そんなやり取りを、クロは椅子に座ったまま何ごともなかったかのように眺めていた。ふ、と口元がほころぶ。
「クロの姉御! 笑ってないで助けてほしいっす! ねぇ、助けてぇぇ!」
悲鳴じみた声で懇願するエルデを、アヤコが苦笑しながらしっかりと押さえ込む。その前では、にじり寄るコートが、わざとらしく“ぶっとい注射器”を手に不敵な笑みを浮かべていた。
「さあ、覚悟はできてるかしら?」
「ひいぃぃぃっ!!」
怯えるエルデの背後――そこには、実際に使用される本物の注射器を構えた看護師が控えていた。小型でハンコのような形状をした、痛みのほとんどない最新型。だが、エルデだけがまだそれに気づいていない。
クロは一連の光景を眺めながら、口元に人差し指を添え、静かに微笑む。
「病院ではお静かに。ですよ、エルデ」
その声はいつも通り落ち着いていて、けれど、どこか嬉しそうだった。
やがて――
笑いと小さな悲鳴の入り混じる診察室に、やわらかな空気が広がっていく。
確かに、ここには“前とは少しだけ違う未来”があった。
それは、クロ以外は誰もが気づかぬまま――けれどたしかに、優しく、穏やかに受け入れはじめていた証だった。