鏡の中のもう一人の自分
クッキーをかじりながら、軽く息をつく。
「ろくに食事もできない環境で、あの身長とスタイル。……不思議でしょうがないんですよ」
「そうね」
オンリーは小さく頷いたが、その顔にはわずかな不安が滲んでいた。
「なので、午後からは医療施設に行きます。トバラさんにお願いして、健康診断とナノワクチン接種の予約を取ってもらいました」
そう言って紅茶をひと口。淡々と告げるクロの声に、オンリーの表情がわずかに和らぐ。
「それなら安心ね。トバラの手が回ってる施設なら、まず問題ないわ」
頬に笑みを浮かべたまま、オンリーはふと窓の外へ視線を滑らせる。
「……それにしても、あの子たち。今頃どうなっているかしら」
「たぶん……メイドのおもちゃですね」
即答したクロの声は、どこか諦めの滲んだ乾いた響きを持っていた。
――そしてその予測は、あまりにも的中していた。
アヤコとエルデは別々の部屋に通され、そこからはもう、逃げ場などなかった。
アヤコが通されたのは、上質なカーペットが敷かれ、間接照明の光がやわらかく肌を包み込むような部屋だった。壁際には全身鏡がいくつも並び、中央には試着台と淡いピンクのガウンが用意されている。
「お客様、まずはお召し物をこちらへ。採寸に入らせていただきます」
メイドの声は優しく、だが迷いがない。まるで、ここが“逃げられない場所”であることを当然とするように。
「……ぬ、脱げって、え……今ここで……?」
「更衣スペースでございます。ご安心ください。視線は必要最小限に致しますので」
(最小限って何よ……見られるって意味じゃん!)
ぶつぶつと心の中で抗議しながら、アヤコはしぶしぶガウンを手に取り、ゆっくりとシャツのボタンを外していく。
服を脱ぐたび、露わになる肌に、部屋の温度がふわりと触れてくる。うなじ、鎖骨、肩口。すべてがさらけ出されていくたび、妙に敏感になった自分の感覚に、アヤコは言いようのない落ち着かなさを覚える。
(……ちょっと寒い。ていうか、なんか視線感じる……)
視線は、メイドたちのものだ。だが、それはいやらしさではなく――“観察”に近い。
メジャーを手にしたメイドが、そっと近づいてくる。
「失礼いたします。お背中に触れます」
「ひゃっ……!」
柔らかな指先が肩甲骨のラインに触れた瞬間、アヤコの体がぴくりと跳ねた。
メジャーが肌に滑り、ゆっくりと胴回りを這っていく。下着越しに伝わる指先の圧に、アヤコの頬がじわじわと紅潮していく。
「バスト、ウエスト……ヒップも、測らせていただきます」
「う、うそでしょ……まだ触るの……っ!?」
言葉に反して、体はもう逃げられないと理解しているのか、腕も足も固まっていた。
ヒップラインを包むように、布越しの計測が進んでいく。
測るだけ――わかっている。なのに、身体のどこかが熱を持ち始めていた。
(な、なんであたし、こんな恥ずかしいのに……ちゃんと受け答えしてんのよ……)
「ありがとうございます。では、こちらの試着服を」
差し出されたのは、身体のラインに寄り添う、機能性を重視したジャンプスーツ――にもかかわらず、生地の肌触りがやけに滑らかだった。
指先でそっと撫でるだけで、柔らかく弾力のある質感が伝わってくる。
試着を繰り返すたび、服の中でわずかに擦れる肌。布地が動くたびに、くすぐったいような、妙な高揚感が襲ってきて――
「こちら、伸縮性と通気性を重視した素材になります。動作確認をどうぞ」
「う、うん……ちょっと動いてみる……あっ……」
服が擦れるたびに――何かが、記憶の奥に沈んでいた“感覚”を呼び覚ましていくような、そんな気がした。ずっと昔、まだ触れたことのないはずの“なにか”が、肌のすぐ下でひそやかに疼いている。戸惑いとともに、そこから目を背けきれない自分がいることに、気づきたくなかった。
(これ……なんか、気持ち悪くは……ない。どころか……)
鏡の中にいる“もう一人の自分”が、どこか大人びて見えた。普段の生活では決して見せない角度、纏わない質感――それは明らかに、今までの“私”とは違っていた。見慣れたはずの輪郭に、どこか“女性”としての線が浮かび上がっていた。
少し前なら、選ばなかったようなシルエット。けれど、それは思っていた以上に――似合っていた。
脚線、肩幅、背筋。メイドたちが整えた髪型すら、自分の印象を少しだけ“美しく”見せてくれている気がした。
「……なにこれ。ちょっとだけ、いいかも……」
気づけば手は次の服に伸びていた。選ばれるのではなく、“選んで”いる自分がいた。
メイドのひとりが、そっと声をかける。
「もしよろしければ、もう一着、こちらなどいかがでしょう」
「……あ、うん。着てみる」
――あたし、今、ノリノリじゃない……?
その疑問が浮かんだときには、もう笑みを浮かべていた。
(くそ……完全にペース持っていかれてる……)
内心でそう舌打ちしながらも、アヤコの指先は、すでに次の服へと伸びていた。羞恥も戸惑いも残っている。けれど――それ以上に、鏡の中の“少し違う自分”に、なにかを惹かれていた。
(……これって、悪くないかも)
着替えるたび、メイドたちの手際が“洗練された誘惑”のように寄り添ってくる。裾を整える指先は無駄なく、襟を直す手は静かに、でも確実に触れていた。
その仮面のように柔らかい笑顔の下に、別の感情がうっすらと浮かんでいることに、アヤコはまだ気づいていない。
――ああ、楽しい。
メイドの一人は、心の奥で甘く囁いた。
(こんなに素材の整った娘……久しぶり。柔らかいライン、絶妙な肌の温度。まだ本人は自分の良さに気づいてない)
その“気づかなさ”がまた良いのだ。服に包まれ、髪を整え、姿勢を微調整するだけで、まるで宝石を磨くように変化していく。
(まだ荒削り……でも、光る)
今この瞬間も、ほんのりと頬を紅く染めながら、次の服へ袖を通そうとする彼女。恥じらいとほんの少しの悦びが混ざりあうその顔に――メイドたちは確かな手応えを感じていた。
(ああ……これは福眼。福眼だわ)
この場所、この時間だけが許される、私たちだけの贅沢。
メイドたちは、表情に変化を見せずとも、その手つきの奥に確かな愉悦を滲ませながら、静かに次の装いへとアヤコを導いていく。
試着は止まることなく続いた。機能性を重視したジャンプスーツ。肩を落とした普段着。そして――アヤコ自身なら、決して選ばないような、“大人の階段”を感じさせるエレガントなドレス。
どの服も、一着ずつ彼女の身体を包み込むたびに、その表情を、ほんのわずかに変えていった。
気づけば、メイドたちはそれらを当然のように“購入リスト”に加えていた。そしてアヤコ自身も、その流れに――自然に、身を任せていた。
(……もう、どこまで着たんだっけ)
そんなぼんやりした思考の最中、鏡に映った自分の姿は、どこか見知らぬ誰かのように洗練されていた。
裾を揺らすたび、布地の質感が肌に馴染んでいく。その感触が心地よくて――だからこそ、余計に戸惑ってしまう。
やがて、メイドのひとりがそっと声をかけた。
「……ふふ。少し整えすぎたかもしれませんね。そろそろ、クロ様のもとへお戻しいただくお時間です」
「えっ……あっ、もう……そんな、時間……?」
時計も見ず、感覚も薄れていた。自分がどれほどの時間、服を脱ぎ、着て、また脱いで――鏡を覗き込んできたのか。思い出そうとしても、はっきりしない。
一瞬、唇が開きかける。けれど、言葉にはならなかった。自分でも驚くほどに、胸の奥に残った“名残惜しさ”。
(……なにこれ。戻るのが、少し惜しいって……)
そんな気持ちが浮かんだことを、アヤコは――誰より、自分自身に知られたくなかった。