紅茶の香りと秘密の応酬
案内されたのは、上階にある静かなサロンだった。落ち着いた調度と差し込む柔らかな光。その中心に据えられた丸テーブルを挟み、クロはオンリーと対面に腰を下ろす。
間もなく、無言の気配とともにメイドが現れ、二人分の紅茶とクッキーをそっとテーブルに並べていく。香り立つティーカップの湯気が揺らめくのを確認してから、メイドは深く一礼し、音もなく部屋を後にした。
扉が静かに閉じられ――サロンには、クロとオンリーだけが残る。
クロはティーカップを手に取り、一口、紅茶を含む。少し甘く、まろやかな味に舌をなじませながら、姿勢を正す。
そんなクロを見ていたオンリーが、ふと視線を伏せ、深く頭を下げた。
「今回は、ありがとう。……二度も、命を救ってもらったわね」
「自己満足の延長です。お金にもなりますし、あまり気にしないでください」
そう言って、クロはクッキーに手を伸ばす。声音は淡々としていて、感情を滲ませる様子はない。
けれどオンリーは、柔らかい笑みを崩さずに続けた。
「それでも――感謝は、感謝よ。自己満足の果てに、誰かが救われるのなら……私は、頭を下げることを躊躇わない」
オンリーは紅茶のカップをそっと持ち上げ、笑みを浮かべたまま、視線だけでクロに問いかける。
「それに――ちゃんと報酬も用意してあるわ」
その言葉に、クロはカップを置きながら、軽く眉を寄せた。
「う~ん。いらないんですが……」
ぶっきらぼうに返すも、オンリーはくすくすと楽しげに笑う。
「そういうわけにはいかないのよ。助けられた者として、礼を尽くすのは当然。それとも……何か、欲しいものはないかしら?」
なぜかじりじりと詰め寄るような口調で問うオンリーに、クロは思わず後ろに体を引きつつ目を逸らす。
「え、なんで追い詰められてるんです、私……?」
気圧されながらも答えを探すクロ。だが、しばし考えた後、諦めたように小さく肩をすくめた。
「……じゃあ、もしも……もしも、どうしてもって言うならですけど」
一呼吸置き、クロは紅茶に目を落としながら、ぽつりと続ける。
「私の本体とヨルハを格納できる、空の戦艦みたいな……それがあれば、ちょっと便利だなって思ってたんですよ。できれば輸送艦ランドセルを上に乗せられるような平らな上部甲板で、ドッキングできて……ブリッジと居住区がちょっとあれば、それだけで十分です」
そこまで言って、はっと我に返る。
「……はは、なんでそんな話してるんでしょう、私。紅茶飲みながら夢語るなんて」
自分で言いながら苦笑し、照れ隠しのようにカップを持ち直して、紅茶をひと口すする。
その様子を見ていたオンリーは、喉奥でくすっと笑いながら、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「わかったわ。マーケットが終わるまでに、用意させるわね」
その声色は相変わらず軽やかだったが――カップを置いた指先に滲んだ冷ややかな静止の気配が、ほんの一瞬だけ、クロの背筋をかすめた。軽やかさの奥に潜む“決して揺るがぬ確信”。この人は、本当にそれを“用意できる”のだ。何のためらいもなく。
クロは紅茶を飲みかけたまま、ぴたりと動きを止め、目を見開いた。
「……簡単に言いますね」
その反応に、オンリーは肩をすくめて紅茶を一口。
「簡単だからよ」
まったく悪びれる様子もなく、当然とばかりに返すその姿に、クロは言葉を失ったまま、カップをそっと置いた。
そして――沈黙をほどくように、オンリーがふいに視線を上げる。
「ねえ、クロちゃん。この“オンリーワン”って場所、どう思う?」
問いかけは穏やかだったが、その声音にはどこか探るような響きがあった。
クロはカップのふちにそっと指を添えながら、少しだけ視線を落とす。
ここまで来る道中――そして今、オンリーと対面するこの瞬間に至るまで、目に映った景色はすべてが異質で、同時に整いすぎていた。
国家にも、海賊にも狙われる小惑星。その価値は――疑いようがない。
「そうですね……マーケットの開催地としては、これ以上ないほど理にかなっていると思います。匿名性と防衛性も兼ね備えている。ですが――」
一拍置いて、紅茶に口をつける。そして、視線をオンリーに向けたまま、言葉を継ぐ。
「わからないことも多すぎます」
そこからは、ためらいのない声だった。
「この街の住人たちは、どこから来たのか。そして……“オンリーワン”という存在そのもの」
言いながら、クロは真正面からオンリーを見据える。
「あなたが、どこでこの小惑星を手に入れ、どうやってここまで作り込んだのか。資金は? 技術は? 監視はどう回避しているのか――」
畳みかけるような問いではなかった。ただ、確認するように、一つひとつを丁寧に並べた。
オンリーは、クロの視線を真正面から受け止めながらも――目元にかすかな笑意をにじませた。むしろ、その奥の何かを愉しむように、紅茶のカップを指先で軽く揺らした。
「……そんなところですかね?」
クロは淡々と締めくくり、再びカップを持ち直す。
ふたりの間に漂うのは、紅茶の香りと、張りつめた静寂。その静けさを破ったのは、オンリーの、あまりにも軽やかなひと言だった。
「な・い・しょ♪」
唇の端に浮かんだ笑みは、無邪気な仮面のように揺れながら――その裏に微かな挑発の色を潜ませていた。その一語が、答えを求めていたクロの思考に、まるで指先で弾くような余韻を残していく。
秘密は語られない。けれど、それがこの人物の“答え”なのだと、クロはすぐに悟った。