街の喧騒と、家族の温度
ウェンとノアは、二人そろってスミスから託された仕入れ任務のため、マーケット中層エリアの各店舗を巡っていた。
一方その頃、クロはトバラに連絡を入れ、エルデの健康診断とナノワクチン接種について相談していた。やり取りは手際よく進み、下層の医療施設にて昼過ぎからの診察枠を確保できたとの返答を受け取る。
それまでの時間を有効に使うため、クロたちはエルデの衣服を揃える目的で街へ出ることにした。
――しかし、問題はひとつ。
現在のエルデの服装だった。
アヤコから借りた私服は、そもそもサイズが合っていない。何よりも、その目立つ胸元が通行人の視線を無駄に集めてしまう可能性がある。クロはシゲルに頼みジャケットを借り、それを差し出した。
「……とりあえず、目立たないように、お父さんのジャケット、着ててください」
それはシゲルのものと思われる黒のダボついたジャケットだった。シンプルなデザインだが、サイズの大きさも相まって全体をすっぽり覆うには十分なはずだった。
エルデは素直に受け取り、ジャケットを羽織る。
だが――やはり、誤魔化しきれなかった。
豊かな胸元は生地を押し上げてシルエットを強調し、ウエストの細さやヒップラインも布地の中に浮かび上がる。前を留めれば布は突っ張り、逆に緩めれば下着のラインが透けてしまいそうな気配さえあった。
「……やっぱり、目立ってるっすか?」
不安げに尋ねるエルデに、クロは率直に答えた。
「正直に言えば――はい。かなり」
「まあ、仕方がないよ。どうにもならないなら、前に進もう」
アヤコは明るく笑い、エルデの背をぽんと叩く。
「……なんか申し訳ないっす」
苦笑しながら頭をかくエルデに、アヤコがやさしく手を差し伸べる。
「謝ることじゃないよ。じゃあ、行こうか」
その笑顔に、エルデも「はいっす!」と元気よく頷いた。
出発直前、シゲルが後方からクロを呼び止める。
「クロ」
振り返ると、真剣な顔で一言。
「いいか、セクシーな服だけは着せるな。色々まずいことになるぞ」
「それ、真剣な顔で言うことですか?」
クロが思わず呆れたように返すと、シゲルはすっと表情を崩して笑う。
「冗談だ。だけど――あいつはお前が助けてきた子だ。責任は持てよ」
「当然です。でなければ、呪いまでかけて縛りませんし」
はっきりとそう言い切るクロに、シゲルは満足げに笑って頷いた。
「任せるぞ」
「はい」
そして、三人はマーケットの中層エリアへと足を踏み入れる。
街路には人が溢れ、賑わいはまさに活気そのものだった。だが、歩き出して数分もしないうちに、エルデへと集まる視線がはっきりと感じ取れた。
人々は言葉にこそ出さないが、明らかに興味を引かれている。歩を進めるたび、無言の矢のような視線が、背中に――いや、エルデの肩と胸元へ、確かに刺さっていた。視線を逸らすふりをして、ちらりと投げかけてくる者もいれば、無遠慮に二度見する者もいる。そのどれもが空気の重さとなって、クロの背筋にじわりと圧を加えてきた。
クロは歩幅を微妙に合わせながら、周囲を警戒するように視線を流した。
その空気を察したアヤコが、そっと一歩前に出て立ち位置を変えた。
「エルデ。とりあえず、私の後ろについてて。盾にはならないけど……少しは視線、減るかもだから」
アヤコは努めて平静を装っていたが、その背中には確かな“庇う意志”が宿っていた。
「……アヤコ姉さん」
ぱっと顔を綻ばせたエルデは、反射のようにその背中にしがみつく。
「ありがとっす!」
「ちょ、ちょっと……外でそういうことしないの! 余計に目立っちゃうから!」
言葉とは裏腹に、アヤコの頬にはほんのり赤みが差していた。照れているのか、それとも動揺なのか――その表情は複雑で、どこか可愛らしかった。
だが、歩みを進めるうちにアヤコの顔に微妙な陰りが差し始める。
唇がわずかに引き結ばれ、目の焦点は遠く、意識は明らかに内側へと沈んでいた。クロが気づきかけたその瞬間――アヤコの口から、ぽつりと呟きが零れる。
「……悔しい。私だって、小さいわけじゃないのに……」
「えっ? 姉さん?」
エルデがきょとんとしながら尋ねると、アヤコはハッとしたように目を瞬かせ、慌てて手を振った。
「あの柔らかさの感触と、無邪気な笑顔が……静かに私の自尊心を削っていくのよ……可愛いけど……」
そう呟いた声には、どこかやさしさも混じっていた。負けを認めつつ、でも目の前のエルデを憎めない――そんな姉としての複雑な情が、言葉の端々に滲んでいた。
エルデはぽかんとした顔をしばし浮かべていたが、やがて意味を悟ると申し訳なさそうに視線を逸らす。
「う、ううん。大丈夫。悪いのは私のメンタルと……あと、たぶんこの体……」
自虐混じりにぼそぼそと続けるアヤコ。その横で、今度はクロが苦笑まじりに声をかけた。
「お姉ちゃん。そんなに気にしないでください。エルデのは、もはや特別ですから」
「特別ってレベル超えてるのよ! どうすればあまり食事もせずそんな羨ましいスタイルになるのよっ!」
そう叫んで両手で顔を覆うアヤコ。その肩を、エルデがそっと叩いた。
「……姉さん、元気出してくださいっす。私、姉さんのスタイルも好きっすよ。だって、姉さんが隣にいると安心するっす。見た目とかじゃなくて……声とか、気配とか、すごく落ち着くから」
エルデの言葉は、どこまでも素直で、どこか寂しさに触れた者だけが持つ優しさに満ちていた。
「そういうのは! 今は逆効果だからやめてぇぇぇ!」
街の雑踏に、やり取りの声が響き、すれ違う人々の視線がいっそう集まる気配に、クロはそっと目を伏せた。
けれど、その騒がしさの中には――どこか温かな空気があった。まるで、家族のような距離感。その温度だけは、たしかに心地よく感じられた。