証明なき最強者の孤独な帰還
クロは――帰るのを、やめた。
巨大な本体であるバハムートの視界が、再び宇宙の広がりへと向けられる。目指すは、新たな標的。――宇宙シャークの群れ。
太陽光の反射すら気紛れにしか映さない、銀と群青の巨影たち。流線型の体を揺らしながら、群れは微かに軌道をずらし、宇宙空間を漂っていた。
バハムートの黄金の眼が、それを捉える。
確認。数、十余り。個体ごとに大型戦艦クラスの質量を持つ、捕食生命体。本来であれば近づくのも危険とされる天災クラスの生物。
しかし――その群れは、こちらの存在を察知した瞬間に、明らかに進路を変えた。
逃げている。
反転し、警戒すらせず、“ただ離れる”という選択を取った。
その姿に、バハムートの口元が、かすかに歪んだ。
「……俺のせいか」
小さく、乾いた呟き。
最強の証明。
だが同時に、狩る前に“狩りにならない”現実。それが、孤独に通じるということを――クロは、よく知っていた。
「逃がすつもりはない。……当然だろう?」
低く響く独白とともに、その巨躯が音もなく動く。
空間を切り裂くような速度。質量からは想像できない加速で、バハムートはシャークの群れに瞬時に追いついた。
「まず、一匹目」
何の技巧も必要なかった。拳が振るわれる――ただそれだけで、宇宙シャーク一体が破裂音もなく弾け飛ぶ。
二体目。三体目。蹴り、踏みつけ、振り払うだけで、群れの数は次第に減っていく。
中には牙を剥いて食らいつく個体もいた。灼熱の熱線を吐く個体もいた。
だが――一切、効かない。
そのすべてを無表情で受け止め、淡々と――処理する。
「ふむ。格闘戦も悪くないな」
腕を振るい、爪で裂き、足で弾き飛ばす。むしろバハムートは、その巨躯での“近接戦闘”の感触を楽しんでさえいた。
最後の一体を残し、ふと――動きを止める。
「……では、試してみるか」
バハムートの右手が、ゆっくりと空を掴むように動く。
そして――何もない宇宙空間から、ひと振りの剣が現れた。
漆黒の刀身。重厚でありながら、どこか歪なフォルム。それは、戦神にふさわしい威容を持ちながらも、どこか“手作り感”のある奇妙な造形だった。
「本来は……爪楊枝だったんだがな」
クロの声に、どこか自嘲の色が滲む。
「まだ、星の監視者だった頃――」
漆黒の剣を片手に、クロはふと遠い記憶を思い返す。
「暇を持て余して、鱗を集めて削って造った。どうせなら……と凝りに凝って作った“剣型の爪楊枝”。一本ぐらい、何かに使えると思ったんだが……」
今のバハムートの体格と比べれば、ほんの少し小さい程度。それは明らかに“爪楊枝”の域を逸脱した漆黒の大剣だった。
静かに構えながら、クロは苦笑混じりに続ける。
「――造った後で気づいたよ。俺、食事をしないんだった、ってな」
その瞬間、剣が閃いた。
最後に残っていた宇宙シャークの一体が、何の抵抗もできぬまま真っ二つに裂け、静かに霧散する。
ただの処理。無感情。興奮も快楽もない。
だがそこには、ほんのわずかに――
退屈という名の虚無に、わずかな満足がにじんでいた。
「……切れ味は期待してなかったが、さすが俺の鱗だな。悪くない」
剣を軽く一振りし、空間へと戻す。虚無に溶けるように、それは静かに消えた。
背後へと視線を向けると――そこには、キレイに真っ二つにされた一番巨大なシャークと無数のシャークの血肉や内臓が散らばる、まさに“地獄”のような光景が広がっていた。
「……やり過ぎたか」
そう呟き、バハムートは右腕を構える。
「――フレア」
漆黒の球体が放たれ、全てを覆い尽くす。骨も、血も、熱も、光も、あらゆる“痕跡”が、球体の中で跡形もなく蒸発していった。
ただ、真空だけが残った。
「これで……報酬、500万。合計で720万突破か。あと二日もあれば終わるな」
事務的に呟き、バハムートの巨躯は転移を開始する。次の瞬間、姿は消え、コロニーのシゲルのドックへと帰還していた。
巨躯が静かにドックへ横たわると、胸部が淡く光を放ち、そこから少女の姿をした“分身体”が再び現れる。
そして意識の核をクロへ移す。
「さて、次は――」
と立ち上がった瞬間、ふと、手が止まる。
「……あれ? 殲滅したのはいいが……どうやって“証明”すればいいんだ?」
最強の存在――クロは、無重力のドック中央にぽつんと浮かび、しばらくその場を動けずにいた。
黒い瞳は宙をさまよい、唇はわずかに開いたまま、何かを言いかけては飲み込むように――ただ沈黙だけが続いていた。
(……いや、待てよ。まさか――詰んだ?)
少女の姿に戻ったクロは、端末を取り出して操作を始める。けれど、画面に表示された依頼情報のステータスは――《未解決》。
報酬受取に必要な、映像データ、もしくは物的証拠も、提出できるものは何一つ存在しなかった。
「……全部、塵にしたからな」
自らの手で放った、漆黒の《フレア》。戦艦も、機体も、宇宙海賊の基地も――果ては宇宙シャークの残骸すらも、何もかもきれいさっぱり消し飛ばした。
ロボットではないクロに、録画機能など備わっているはずもなく。証明となるものは、ひとつも残っていない。
ただ、知っているのは“自分だけ”。
「……マジで詰んだかもしれん」
静かにドックの床へと腰を下ろし、クロは両手で頭を抱える。その姿は、どう見てもただの少女――あるいは、世界の理不尽に途方に暮れる普通の人間にしか見えなかった。
――最強。神格。伝説。脅威。
今なお最強。そう呼ばれている存在が、今、目の前の“手続き”ひとつで悩み、撃沈していた。
(……もう一度、アヤコたちのところに戻って、“報告ってどうやればいいの?”なんて訊くしかないのか……)
想像しただけで、クロは両手で顔を覆いそうになった。
数千年の監視。神にも近い存在。最強種。そのすべての肩書きを背負ってきた自分が――証拠提出の方法がわからず、途方に暮れている。
「恥ずかしすぎる……これが、人間としての感情か」
ぽつりとこぼした言葉は、虚無のように広がる無重力空間へと吸い込まれていった。
「……久しぶりに味わったが――やっぱり、できれば味わいたくなかった……」
肩を落としながら立ち上がり、クロは意を決して転移の構えを取る。
「……もう、どうしようもない。アヤコたちに――相談するしかない」
そう呟いた瞬間、空間が揺らぎ、転移の閃光がクロの身体を包んでいく。
――だが。
そこから“実際にアヤコたちのもとへ向かう”までにかかった時間は一時間。
そのあいだ、コロニー内の片隅で右往左往しながら歩き回っていた姿を見ていたのは、ただ一匹。
昨日助けた白猫・シロだけだった。
シロはクロの姿を見上げながら、くるりと尻尾を揺らし、「また迷ってるなぁ」というような顔で、のんびりとあくびをした。