黒バラ姫、狩りへ
いつものワイルズシリーズに着替えを終えたクロは、転移の光を背にランドセルのリビングへと現れた。
そこでは、シゲルがソファーにどっかり腰を下ろし、バトルボールの試合を眺めながらビールを飲んでいた。テーブルの上には皿に乗ったきゅうりの一本漬けがあり、その横でクレアがふてくされたように鼻を鳴らしている。
「戻りました」
クロが何か言おうとした、その瞬間。クレアがその気配を察知し、するりと身を翻した。舞うようにクロの肩へと飛び乗り、しなやかに腰を落ち着ける。その動きに釣られるように、ようやくシゲルが振り返る。目元には、からかいの色が浮かんでいた。
「おかえりなさい、クロ様」
「帰ったか、黒バラ」
「……黒バラ、ですか?」
眉を寄せて問い返すクロに、シゲルは楽しげにビールを一口あおってから言った。
「ああ、お前が“クロ”だとはバレちゃいないがな。巷じゃ“オンリーの隣に立つ冷笑の黒バラ姫”って呼ばれてるらしいぞ。お前のことだ」
肩に乗っていたクレアが「ふふん」と得意げに揺れた気がする。
「……私を売り物にしておいて、よく言いますね」
クロがため息混じりに言うと、シゲルは軽く肩をすくめる。
「売ったつもりはねぇさ。だって結局、金はまだ払われちゃいねぇからな。ノーカン、ノーカン」
その言葉に、クロの口元がわずかに釣り上がった。どこか挑戦的な、けれど楽しげな微笑。
「――今から、一儲けしてきますが。皆さんは?」
肩の上で尻尾を揺らすクレアがちらりと視線を巡らせる。シゲルはビールをひと口すすってから、ゆるく答えた。
「アヤコとウェンとノアなら、街に出てる。買い物と食べ歩きだとよ」
そして、ふと目を細め、クロの方へ視線を戻す。さっきとは違う表情――真剣さの色を混ぜた目つきだった。
「……それより、“一儲け”って言ったな。何か、あったのか?」
問いかける声に、クロは表情を崩さず、あっさりと返した。
「はい。ミミック海賊団がオンリーさんを狙っていました。ですので、少々――掃除に行ってきます」
さらりと告げられた一言に、シゲルはしばし言葉を失う。肩を落とし、あきれたような吐息をひとつ漏らした。
「……また、えらく物騒な“お小遣い稼ぎ”だな。お前の場合」
ビールのグラスを傾けながら、呆れと苦笑が入り混じったような目でクロを見やる。けれど、クロは涼しい顔で肩をすくめた。
「残念ながら、キャプテンがいないので安いですけどね」
肩の上のクレアが「行きましょう」と小さく言った直後――クロの姿は転移の光と共に、リビングから消える。
その背を見送ったシゲルは、ため息まじりにソファーへ身を沈めた。グラスを持ち直しながら、ぽつりと呟く。
「……何か、面白いもん拾ってこねえかな」
その呟きは、誰に向けたわけでもない。けれど、――それが“現実”になることを、このときのシゲルはまだ知らなかった。
リビングには再びバトルボールの実況が流れ、観客の歓声が鳴り響く。テレビの前、ソファーに座る彼の横では、一本漬けのきゅうりがそっと残されていた。
転移を終えたバハムートとヨルハは、コロニーのドックに降り立つと、迷うことなく〈疑似コックピット〉へと向かう。二人はその装置に静かに身を収め、意識を分身体から本体へと還元した。そして、再び転移を行い、昨日、元の姿に戻った宙域に現れる。
疑似コックピットのクロは、ゴーグルを装着しながら、目の前に展開された宙域図に視線を走らせた。すでに受け取っていたデータに基づき、海賊たちの現在位置が座標として投影されている。
「さて、ヨルハ。今回もいつも通りだが、一つだけ注意な」
バハムートは淡々と語りながら、光の点で示された艦隊を指し示す。
「戦艦への攻撃は厳禁。そして、指揮官らしき存在は“生け捕り”にする」
「……なぜです?」
ヨルハが不思議そうに問いかける。無表情に見えて、その声には明確な疑問の色がにじんでいた。
バハムートは、短く頷いたあと、淡々と説明を加える。
「トバラに引き渡す約束だ。あの戦艦も、色々と調べる価値がある。あれは、ただの鉄の塊じゃない――“面白い構造”をしている」
そこまで語ってから、バハムートは小さく言い切る。
「だから、あの戦艦は持ち帰る。指揮官も、情報源として確保する。だが――」
一瞬、空気が鋭く張る。バハムートの声が、淡々とした調子のまま、切っ先のような響きで続けられた。
「それ以外は塵でいい。逃げるのがいた場合は、絶対に逃がすな」
その言葉を受け、ヨルハの仮想視界が僅かに点滅する。
「わかりました。指揮官以外、完全排除。戦艦は無傷で回収――ですね」
「そうだ。いつも通り、正確にな」
冷静で、徹底された命令。それを受けたヨルハの反応は無駄がなく――これから始まる“狩り”の幕が、静かに上がった。