美は剣、笑顔は鎧
「……クロはまだいい」
その声に振り向いた瞬間、クロの目が一瞬大きく見開かれた。
現れたのは――ノーブルだった。
「ノーブルさん……?」
クロは小さく声を漏らす。けれど、その姿に確信が持てず、もう一度問い直す。
「……ノーブルさん、ですよね?」
問いに応えるように、ゆっくりと頷いたのは、深紅のドレスに身を包んだひとりの女性だった。
「私だ。……だから嫌だったんだよ、こういうのは」
その声は確かにノーブルだった。けれど、姿はまるで別人だった。
赤く切りそろえたショートヘアは、今はすっきりとしたロングストレートへと変えられ、艶やかに背中へ流れている。メイクも完璧に施され、瞳の輪郭も口元の印象も引き締まり、オンリーには及ばないまでも、その存在感はまさしく皇族に連なる一員であった。
その姿をひと目見たクロは――思わず、息を呑んだ。
身にまとうドレスは、重厚な深紅。肩から腕にかけては大胆に露出し、背中まで大きく開いたシルエット。そして、袖の位置に添えられた巨大なリボンの装飾が、気高さと華やかさを一層引き立てていた。裾にかけて緩やかに絞られたラインは、彼女の背筋の美しさを際立たせ、どこか神殿の巫女を思わせるような、神聖で近寄りがたい印象を宿していた。
だが――当の本人はいたって不満げだった。
「……恥ずかしい」
ノーブルはそう呟きながら、思わず手で顔を覆おうとする。
その瞬間――すかさず、メイドたちが笑顔で詰め寄った。
「お顔、触らないでくださいませ♪」
その柔らかくも容赦ない制止に、ノーブルはぴたりと動きを止め、顔を引きつらせながら視線を逸らす。
「……見られるほうの気にもなってくれ……」
ノーブルは小声でぼやき、周囲の誰にも聞かれていないことを確認すると、そっとため息をこぼした。
その姿を横目に見ながら、クロがぽつりと尋ねる。
「ノーブルさんって、そういうの慣れてるんじゃないんですか? 帝国の式典とかで、いろいろ着飾る機会も多いでしょうし……」
その問いに、ノーブルはほんの一瞬だけ目をそらし、代わりにオンリーが口元に手を添えて優雅に微笑んだ。
「ふふ……ノーブルちゃんはね、そういう式典には――出ていないのよ」
くすりと笑いながら続ける。
「いつも抜け出して逃げてたの。たとえば――今まさに、ね」
「オンリー!」
ノーブルが鋭く抗議の声を上げるが、クロはその意味が呑み込めず、首を傾げる。
「今まさに、とは……帝国で何かあるんですか?」
するとオンリーは、こともなげに答えた。
「ええ。今日は皇帝陛下のお誕生日なのよ。帝都では盛大な祝典が開かれているはず」
その一言に、クロは目を見開いた。信じられないというような顔で、改めてノーブルを見つめる。
「えっ……それって、帝国の重要行事ですよね? ……いいんですか、こんなところにいて?」
ノーブルは視線を外したまま、少しだけ苦笑して肩をすくめた。
「問題ない。……いや、正確に言えば“出なくても咎められない”だけだ」
そしてゆっくりと、かつ断固とした声で言い切る。
「大体ああいう場は、面白くもない。貴族の祝辞を延々と聞かされるだけで、心にもない言葉の応酬と礼式の形ばかり。時間と気力を削るだけだ」
そこまで語ったあと、ノーブルはわずかに口調を引き締める。
「それに、こんな時期だからこそ、式典の裏で動く者もいるかもしれない。私は軍属として――そういう連中の気配を警戒していたい。くだらない礼装より、市民の安全を守る方がずっと価値がある」
その真剣な声に、クロは少しだけ感銘を受けかけた――が、
「でも、今ここ“不干渉地域”で、帝国の領土じゃないですよ?」
クロが真顔で返すと、ノーブルの眉がぴくりと動いた。
「……それはそれ。気持ちの問題だ」
ぶっきらぼうに返したノーブルの横顔には、どこか照れをごまかすような気配が滲んでいた。言葉を切ったあと、一瞬だけ視線を逸らし、苦笑を浮かべる。
その様子に思わず笑みを浮かべながら、オンリーはくるりと身を翻し、控えていたメイドたちに振り向く。
「ふたりを隣のお部屋にご案内して。私も準備に入るわ。トバラと……あと三人、呼んでおいてちょうだい」
そう淡々と指示を出したあと、クロとノーブルに視線を戻し、片目でウインクを送った。
「私も、ちゃんと着飾ってくるわ。少しだけ、待っててね♪」
その一言に、クロは素で尋ねてしまう。
「……その状態って、着飾ってないんですか?」
一瞬の静寂。
次の瞬間、オンリーは口元を押さえたかと思うと、堪えきれず吹き出した。
「ふふっ……ふふふふっ、くくっ……確かに……これで“着飾ってない”って言ったら、嘘になるわね、ふふふふふっ!」
上品な笑い声が室内に響き渡る。
そんなオンリーの姿を見ながら、ノーブルが感心したように呟いた。
「オンリーがここまで笑うの、初めて見たかもしれないな……」
そして、隣でぽかんとしているクロの肩に手を置く。
「よくやったな、クロ。これはなかなかの手柄だ」
オンリーはひとしきり笑ったあと、胸元に手を添えて、再び微笑む。
「着飾るっていうのはね――ただの見せかけじゃないの。誰よりも強く、美しく、自分を立たせるための……“鎧”よ」
その瞳は静かに輝き、ふわりとドレスの裾を揺らす。
「美は剣。笑顔は鎧。私にとっての“装い”は――戦場に向かう覚悟そのもの」
そう言い残して、オンリーは優雅に踵を返した。
その背中には、ただの“ドレスアップ”ではない、自らの立場と力を誇る者だけが持つ、毅然とした気迫が宿っていた。