クロとノーブルの逃げ場なきドレスアップ
「お待ちしてたわ」
扉の奥から現れたのは、オンリーだった。今日はスーツ姿ではなく、流れるような純白のドレスに身を包み、足元には艶やかなヒール。そのたびに床を打つ高音が、空間の緊張を静かに刻んでいく。
コツ、コツと歩を進めながら、微笑をたたえてふたりを出迎える。
「入って。準備しましょうか」
その優雅な手招きに、クロは一瞬だけ立ち止まる。
「……すみません。何をすればいいのか、分かっていなくて」
戸惑いながら尋ねると、オンリーはわずかに首をかしげるようにしながら、楽しげに言った。
「あら? ノーブルちゃんからは、何も聞いていないの?」
クロは小さく頷いた。
「“緊急事態”とだけ聞いてます。それと、“厳しい状況になるかもしれない”と。……もしかして、昨日の私の行動がご迷惑をおかけしたのではと思ったのですが……」
言葉の最後がかすかに震える。それに対して、オンリーはふっと口元を緩め、ノーブルの方へと視線を向けた。
「そうね。ノーブルちゃんにとっては、確かに“緊急事態”かもしれないわね」
「そうだ! だからクロを代わりに……」
そこでオンリーはそっと目を伏せた。その仕草は悲しみすら感じさせる。
「でも、ノーブルちゃん。……だからと言って、クロちゃんに何の説明もなく連れてくるのは――ルール違反よね?」
「いや、でも……っ」
言い淀むノーブルを制するように、オンリーはもう一度微笑んだ。
「ノーブルちゃん。貴女も――いらっしゃい」
その優しい口調が、なぜかどこか逃げ場のない響きを帯びていた。
トバラがそのタイミングを逃さず、片手を軽く胸元に添えながら、いつもの微笑を浮かべて言う。
「お覚悟を、お決めになられた方がよろしいかと。……さあ、どうぞ」
トバラの言葉が静かに空気を切り裂くように響いた瞬間、クロの背筋にひやりとしたものが走った。
「ノーブルさん。……何が始まるんです?」
思わず問うたクロに、ノーブルはどこか諦めたような顔で、ぽつりと呟いた。
「……行けば分かる。腹をくくろう」
そうして彼女は、ゆっくりとオンリーの待つ部屋の奥へと進み始める。
クロも、自分の行動が原因で何かが起きてしまったのではないかと内心で悔やみながら、その後に続いた。
トバラは無言のまま扉の外に留まり、代わりに六人のメイド姿の女性たちが一礼しながら静かに部屋へと入っていく。ドアが閉まると、部屋の空気は一変した。
オンリーのもとにメイドたちが整列し、クロとノーブルはその前に立たされる。
「さて、始めましょうか」
オンリーが優雅に微笑みながら口を開いたが、クロはまだ状況が掴めない。
「……何をですか? 昨日の後始末……ですか?」
「いいえ。これよ♪」
そう言ってオンリーが壁に手を当てると、空間が一変する。
壁面がせり出し、全身を映す大型のホロミラーが浮かび上がる。おしゃれと機能美を両立したドレッサー、繊細な縫製のドレスからスポーティな戦闘服風の衣装、靴、アクセサリー、髪飾りまで――まるでセレブのショールームのように、豪奢なアイテムが一面に現れた。
「……これは……?」
背中に冷たい汗が一筋、流れる。何かがおかしい。だがもう手遅れだった。
ノーブルがクロに向かって、顔を引きつらせながらぽつりとつぶやく。
「今から……着せ替え人形の時間だ。その後……マーケットと街を、その姿で――パレードするらしい……」
「……は?」
クロの声は、あまりにも素っ頓狂だった。現実味がなさすぎて、思考が止まった。
そのとき――オンリーがパチンと指を鳴らすと、メイドたちが一斉に動き出す。
クロの周囲に三人のメイドが集まる。
「オンリー様の“社交活動”の一環なのです。……お二人には、素性を伏せたままパレードに同行していただきます。あくまで“引き立て役”として、そして何かあった時の“護衛”として……」
その声音に迷いはなかった。まるですでに、その筋書きで全てが進行しているかのように。メイドたちの表情には、わずかに喜色が浮かんでいる。
それは義務感ではない。むしろ――これから始まる“遊戯”に対する、静かな興奮だった。
オンリーが一歩、前へ進み出て、優雅に微笑んだ。
「クロちゃん。おめかしの時間よ♪」
その言葉が合図だった。
クロの周囲にいた三人のメイドが、一斉に動く。無言、かつ素早く。まるで長年の訓練を積んだような動きだったが――その目は、明らかに輝いていた。
「ちょっ、いや、まっ――!」
クロは思わず両腕で服を押さえ、後ずさる。けれども足がふらつき、逃げ場はない。
「いやいやいや! 巻き込んでおいてそれですか! ちゃんと脱ぎますから! だから、なんでそこまで――!」
思考が追いつかない。叫びも虚しく、服の裾に伸びる手は容赦がなかった。
心の中で悲鳴が渦を巻く。逃げ場のない小動物になった気分だった。視界の端では、ノーブルが肩を落とし、三人のメイドに連れられて洗体スペースへと運ばれていく。
「クロ……諦めが肝心だ……」
その言葉が、どこか遠くで聞こえる。――完全に、観念している顔だった。
クロは服を死守しながらも、抵抗の限界を悟りつつあった。
だが――メイドたちの手は止まらない。それどころか、むしろ楽しげですらあった。
彼女たちは“任務”としてこれをこなしているわけではなかった。彼女たちにとってこれは、“至高の時間”だった。
最高級の布地を与えられ、最良の素材を預かり、それを完璧に仕立て上げる。ましてその“素材”が、あのオンリー様直々のご指名であり、その上、類まれなる容姿と気品を備えた存在――クロとノーブルだった。
これほどの逸材を“完璧に仕立てる”機会は、滅多に訪れない。だからこそ――彼女たちは燃えていた。
もはや“遊び”ではない。全力で、最高に美しい仕上がりを目指す。彼女たちにとって、それは使命であり、誇りであり、そして何よりも――楽しい“創作”の時間だった。
そう。この部屋にいるメイドたちにとって、クロとノーブルは“素材”だった。
仕立てがいのある美しい獲物。美しさと可愛さを兼ね備えたふたりを、最高の完成品へと仕上げること――その悦びと高揚に満ちた“仕事”に、妥協も容赦も存在しなかった。
逃げ場は――どこにも、なかった。