オンリーの扉の先で
シゲルとクロが小声で話をしていたその時――店の喧騒をすり抜けるように、ひとりの人物がまっすぐカウンターへと歩み寄ってきた。
入ってきたのは、ノーブルだった。
整った衣服に身を包み、無駄のない足取りでカウンターの前に立つと、用件だけを簡潔に口にする。
「シゲル。クロを借りるぞ」
開口一番のその言葉に、シゲルは眉ひとつ動かさず即答した。
「500万だ」
あまりにもしれっと、値段をつける。
クロはそのやり取りを聞きながら、先ほどの説教を思い出して小さくため息をつき、肩を落とす。
「……私は売り物じゃないんですが」
だがノーブルは、ごく自然に――まるで買い物か何かのように短く応じた。
「買った」
「買わないでください」
クロの即答には、どこか慣れた諦めすら滲んでいた。
肩に乗っていたクレアをそっと降ろし、カウンターの端に座らせる。
「お父さんの護衛をお願いしますね。今回は――寝ないように」
そう念を押すと、クレアは『任せてください』と言わんばかりに胸を張り、キリリとした目つきで店内を見回し始めた。
クロはひとつ頷いてからカウンターを出て、ノーブルの隣に立つ。
「行ってきます」
そう告げるクロに、シゲルは悪戯っぽく笑いながら問いかけた。
「で、支払いは?」
「私は商品じゃないので、タダです」
そう言って軽く笑い、クロはノーブルと並んで店の外へと歩み出ていった。
店舗を出るやいなや、ノーブルは無言のままクロの手を取った。そのままの勢いで、ぐいと引っ張っていく。
「いやいや、ついて歩けますから……!」
クロがわずかに引き攣った笑みを浮かべながら抗議するも、ノーブルは一言だけ返した。
「すまない。だが、急いで対応してもらいたい案件ができた」
その声音には、いつもの静けさとは異なる焦りが滲んでいた。
マーケットの雑踏を縫うように足早に進み、階層移動用のエレベーターへと滑り込む。
扉が閉まると同時に、クロは隣に立つノーブルに視線を向けた。
「……どうしたんです?」
問いかける声にも、自然と緊張が混じる。
ノーブルの顔には明らかな緊迫感があり、その空気をまとったまま、静かに口を開いた。
「オンリーの元へ向かう。彼女の部屋だ」
その一言だけで、クロの背筋が強張った。
オンリーワンの主――彼女が関わるということは、ただの用事では済まない。
クロは咄嗟に昨日の自分の行動を思い返す。バハムートでこのオンリーワンに接近したこと。まさか、それが何か――いや、“何かを起こした”のではないか。思考が渦を巻く。
内心、冷や汗のような感覚が首筋を伝った。
「いいか、クロ。気をしっかり持てよ。お前には、これから少し厳しいことを強いる。だが――我慢してくれ」
ノーブルの声には、珍しく迷いが滲んでいた。その言葉の裏に、何かを“させよう”としている気配がある。
クロはその意図を察し、静かに息を呑んだ。
(……バハムートとして、何かを求められるのだろうか?)
緊張が胸を締めつける。
もしも、昨日の自分の行動が、何らかの影響を及ぼしていたのだとしたら。その責任は、すべて自分にある。
たとえそれがどれほど過酷な命令であっても、今の自分には受け止める覚悟がある。
そう、クロは心の中で決意を固めた。
その瞬間、エレベーターが静かに到着音を鳴らす。
扉が左右に開くと、目の前に現れたのは、以前とは違う――ひと際豪奢な意匠が施された扉だった。
真紅と金を基調にしたその重厚な扉の前に、姿勢正しく立つひとりの男がいた。
執事――トバラである。
その静かな佇まいが、これから訪れる“別格の空間”を予感させていた。
「お待ちしておりました、ノーブル様。そしてクロ様」
扉の前に立っていたトバラが、微笑みを湛えた顔で静かに一礼する。常に穏やかで礼節を忘れぬ彼の声は、空気を引き締めるように心地よく響いた。
「トバラ……連れてきた。だから、頼む!」
ノーブルは普段の落ち着いた姿とは程遠い様子で、切羽詰まったように言葉をぶつけた。
だがトバラは、動揺する様子もなく、あくまで穏やかに言葉を返す。
「それをお決めになるのは――オンリー様です」
そして、ゆっくりと両開きの扉に手をかける。軋む音ひとつ立てず、滑らかに――しかし、どこか荘厳さを湛えながら、重厚な扉が開かれていった。
その向こうに広がるのは、昨日の部屋とはまったく違う空間だった。
黄金の縁取りが施された壁面、天井には透き通るような光を宿すパネル。室内には高級調度と幾つもの香の気配が漂い、優美さに満ちていながらも、どこか張り詰めたような静寂が支配していた。
クロが思わず息をのんだその隣で、ノーブルが呟いた。
「くっ……もう、逃れられん……!」
まるで何かを悟ったかのような、諦めにも近い声。怯えに似た色を瞳に宿しながら、ノーブルはかすかに肩を震わせている。
クロは、ただ驚くしかなかった。いつも冷静で理知的なノーブルが、これほどまでに気圧されるとは――
(……ここで、いったい何が起きる?)
直感が告げていた。この部屋の先にあるのは、ただ事ではないと。緊急事態――いや、想像を超えた“何か”が、待っているのだと。