浅はかな策と商人の正論
マーケット二日目。クロはレッドラインの店の一角で静かに様子を見守っていた。店内には、ひっきりなしに人の出入りがある。客たちはディスプレイに浮かぶ商品が映る3DCGの立体モデルを、それぞれを手に取り操作しながら、細部を回転させたり説明文を読み込んだりしていた。
他の店と比べて、明らかに商品ジャンルの幅が広い。ジャンク品やドローンにアヤコの独自アプリやプログラム。コロニー内から直接オーダーされた品もあれば、明らかにシゲルの独断で仕入れたとおぼしき雑貨や装飾品、食品サンプルに至るまで――実に多種多様だ。
その賑わいがシゲルの“商人としての勘”によるものなのか、それとも彼が培ってきた人脈と信頼の積み重ねによるものなのかは分からない。だが、ひとつだけ確かなのは、客足が一向に途切れる気配を見せなかったということだった。
クロはそんな店内の流れを観察しながら、耳に入ってきた周囲のざわめきに、ふと視線を上げる。
――ある噂が、流れ始めていた。
「バハムートが、このオンリーワンのすぐ近くを通ったらしいぞ」
「いや、もう根城にしてるって話もある」
「見たってやつがいる。漆黒と紅の巨体、金色の光を引いてたって」
最初は通りすがりの囁きだったその噂は、やがてマーケット全体、そしてオンリーワン中へと広がっていく。誰かの推測が、いつの間にか確信めいた口調に変わり、それがまた別の憶測と結びついて増幅していく。
バハムートが近くにいる。もしかしたら、不干渉地域を拠点にしているのかもしれない――と。
その情報は、当然ながらシゲルの耳にも届いた。
シゲルはふと視線を上げ、わずかに顎をしゃくってクロを呼ぶ。クロはその意図を察し、カウンターの内側へと足を運んだ。
低く、周囲に聞こえないような声で、シゲルが問いかける。
「……なんで、この近くを通った?」
クロは迷いなく、淡々と答えた。
「アリバイ作りです」
その返答に、シゲルの眉がぴくりと動いた。
「クロ……お前……」
静かに詰め寄るような声に、クロは続ける。
「私は昨日、お父さんや皆さんと一緒に、この下層の街で食事をしていました」
「ああ、そうだな」
「そして、同じタイミングで、バハムートがオンリーワンの近くで目撃されている」
そこでクロは一拍置き、視線を真っ直ぐに返した。
「つまり――その場にクロがいたにもかかわらず、バハムートが現れて通り過ぎていった。“クロとバハムートは別物だ”と証明する、わかりやすい状況が自然に出来上がります」
シゲルはふっと息を吐きながら、視線をテーブルに落とした。
「……二人が同時に存在してた、って構図を作るため、か」
「はい」
クロは肯定し、表情を崩すことなく頷いた。
シゲルは短く、ため息まじりに一言だけ呟いた。
「……お前、バカ確定だわ」
その一言に、クロはぴくりと眉をひそめる。
「なぜです?」
シゲルはお客さんの対応をこなしながらも、即座に答えることなく、まず一つずつ淡々と指摘していく。
「まずひとつ。お前がアリバイを作る理由がねぇ。誰に対して、何のためにだ?」
クロは口を閉ざした。言葉が、続かない。
――今、気づいた。
ただ“やっておいた方がいい”と思っただけだった。策を講じること自体に、どこか意味があるような気がしていた。
でも今、そう問われれば――その裏づけも、目的も、あやふやだったことを思い知らされる。
その沈黙を受け止めるように、シゲルが続けた。
「ふたつ目。ただの危険行為だ。万が一、あれがこの近辺を通ったことで、オンリーワンの位置が正確に特定されたら――お前は責任、取れるのか?」
正論。何ひとつ言い返せない。
クロは無表情を保ちながらも、視線を落とし、眉をわずかに下げた。
「……三つ目」
「まだありますか……」
小さく漏らしたクロの言葉に、シゲルは片眉を上げて店内へ顎をしゃくる。
「あるに決まってんだろ。――この現状、見てみろよ」
視線の先には、相変わらず賑わいを見せるマーケット。ひっきりなしに人が出入りし、噂話と買い物が絶え間なく交差しているマーケットの喧騒。その光景を視線で示しながら、シゲルは続けた。
「“バハムートがこの近くにいる”なんて噂が広がってるんだぞ? もしオンリーが危険と判断して、マーケットそのものが中止になったらどうなると思う?」
クロは黙ったまま、わずかに視線を落とす。
「売上は吹き飛ぶ。託された商品も買い手に届かず、注文品も流れる。結果、全部が徒労に終わって――赤字確定だ」
シゲルは店内の雑然とした賑わいに紛れるように、声を潜めて告げた。その言葉は静かだったが、内容はひどく現実的で――重かった。
現実として突きつけられたリスクに、クロは返す言葉を持たなかった。“策”を講じたつもりだった。だが今は、それがどれほど浅はかだったかを思い知らされる。
シゲルはひと呼吸置き、わずかに声の調子を緩めた。
「……だがな、オンリーは、お前の正体を知っている」
クロはそっと顔を上げる。
「そして今、広まってる噂も――恐怖じゃなく、半分は“面白がり”で流されてるんだ。良かったな。少なくともこの場所じゃ、バハムートは“脅威”じゃない。“珍獣”扱いだ」
その言葉に、クロの胸の奥がわずかにほぐれる。ほんの少しだけ、呼吸がしやすくなった気がした。