崩壊した正義と、酒に沈む神
その頃、フロティアン軍最高司令部。豪奢に装飾された一室の中で、ひとりの男の怒りと恐怖が爆発していた。
――ディク・バオウル大大将。
軍を束ねる最高責任者である彼の手には、つい先ほど届いた報告書が握られている。拳を強く握りしめすぎて、皮膚が裂け、血が滲んだ。
報告の冒頭に記されていたのは、こうだった。
『第七艦隊が消失。軍全体の3割にあたる戦力を喪失。再び元の戦力水準に戻すには、およそ10年を要する見込み』
その一文を読んだ瞬間、バオウルの怒りが沸点を超えた。拳に込めた力で皮膚が裂け、血がにじむのにも気づかない。
『模擬兵装体バハムート一基、主力戦艦15隻、重巡洋艦20隻、汎用型巡洋艦30隻、哨戒艦90隻、艦載戦闘機1500機、起動兵器380基、支援ドローン母艦4隻、要員総数:約2万7000名――継続確認中』
戦力の数字が列挙されるたび、頭の中が赤黒く染まっていく。それは、国家の背骨をへし折るに等しい損失だった。
だが――次の一文を目にした瞬間、その怒りは音もなく凍りつく。
『第七艦隊の消失原因は、“バハムートの出現”によるものと推定』
思考が止まり、呼吸が浅くなる。ただ、それだけの言葉で、すべてを理解してしまった。否、理解できてしまったがゆえに、恐怖が骨の奥にまで染み込んでくる。
たった一文。それだけで、第七艦隊が――いや、あの宙域そのものが、無に還ったことが分かる。
ひとつの名前が、報告書の行間を支配していた。それだけで、艦隊すべてが、抵抗すら許されずに消し飛んだという現実が、容赦なくのしかかってくる。
「……何たる失態。何たる悪夢……!」
呻くような叫びが、広間に響いた。今まで積み上げてきた計画が、脳裏で崩れていく。
年単位で描いた戦略。莫大な資金を投じ、裏取引のために築き上げた組織網。選りすぐった人材で構成された、第七艦隊――最強の戦力。
オンリーワンを手中に収めるはずだった。その先にある、かつてない規模の軍事技術。得られるはずだった地位。帝国への影響力。新たな惑星への侵攻と支配。
壮大な野望が、ほんの数週間のうちに、音もなく瓦解した。
「なぜだ……。何故だ……!」
声が震える。
怒りとも悔しさともつかぬ感情が胸を満たし、言葉にならぬ咆哮が喉の奥を焼いた。
そのとき、不意に通信が接続され、部屋の中央にモニターが投影される。映し出されたのは、無表情のままこちらを見下ろす男の姿だった。
『お気の毒様ですね』
その冷たく抑揚のない声に、バオウルの血管が逆流した。
『バハムート……なぜ現れたのか、気になりますね』
涼しげな口調。まるで、他人事だと言わんばかりだ。
瞬間、怒りが爆ぜる。
「貴様に言えたことかッ!! 貴様の計画も、同時に消し飛んだのだぞ!!」
そのまま近くの椅子を掴むと、投影された赤い髪の男の映像に向かって全力で投げつける。椅子は映像をすり抜け、背後の壁に激突し、無惨に砕け散った。
『……分かっていますよ。私にも今、影が迫りつつあります。まあ、その前に尻尾は切りましたので、問題はありませんが』
男は気にも留めず、淡々と続けた。
『こうなれば、私も帝国内での動きを強めざるを得ませんね』
肩で荒く息を吐きながら、バオウルは血に染まった指をまっすぐ画面に突きつけた。
「バカか……! 今動けば、我々の“真の目的”が、今度こそ完全に消し飛ぶぞ!」
だが男は、まるでそれすら想定内だと言わんばかりに微動だにしない。
『今回は、いわば事故です。誰があの場に、バハムートが現れると予想できました? できなかったからこそ、私は動きを強めるんです。運が悪かった――で終わらせない。だからこそ、次はしっかりと準備して、目的を遂行する。……お分かりですね?』
演技がかった抑揚を込めながら、男は笑みすら浮かべた。バオウルはわずかに目を伏せ、呼吸を整える。
「……分かっている。こちらは全力で支援する。もちろん、貴様にも我々への支援を求める」
『もちろんです。我々は一蓮托生。どちらかが潰れれば、もう片方も沈む。それだけは、絶対に避けなければならない』
男の口元がわずかに引き締まった。
『バハムート――あれは危険すぎる。だが、確実に倒せる“当て”があります。それを動かすつもりです。同じ轍を踏まぬように』
「……私にも、当てはある。そいつらを何としても集めなければならん」
二人の陰謀は、別々の場所で――だが、同じ破滅の予感を孕んだまま、静かに動き出していた。
……だが、現実はいつも想像よりも滑稽で、そして残酷だった。
バハムートの分身体であるクロは、その思惑など知るよしもなく――すでに、倒れていた。
「くろ〜、おさけよわいね〜〜」
「だらしないな〜。おねいさんが、もっとのませてあげる〜」
完全に酔っぱらったアヤコとウェンが、クロを挟んで上機嫌に笑っていた。
差し出されたグラスは次々と空き、クロは見る見るうちにソファへと沈み込んでいく。
視界は歪み、瞼が重く、顔も上げられない。
「……かんべんして……」
か細く呟いたそのひと言を最後に、クロはテーブルに額を預け、そのまま眠りに落ちた。
すぐ隣では、クレアもまた静かにうずくまっている。盃に口をつけた直後、ぴたりと動かなくなった。たったひとなめ――それだけで、完全に沈黙していた。
部屋の隅では、シゲルとノアがふたり、黙ってその光景を見つめている。
「……もう、あいつらに酒は飲ません」
シゲルは呟くと、ため息まじりにビールをひと口あおった。
「ウェンって……あんな風に酔うんだ……」
唐揚げを口に運びながら、ノアもぼそりと呟く。
「……お酒、やめておこうかな」
二人は、テーブルに顔を埋めたクロを見守るようにして、再び黙り込んだ。
倒せる存在――それはもう、すでにここにいたのだった。