怒れる神の終焉譚
戦場と呼ぶには、あまりにも一方的すぎた。
艦隊の配置。兵装の火力。数においても、確かにフロティアン軍第七艦隊は優勢だった。だが――傍から見れば、“二体の敵”と“無数の味方”という構図は滑稽ですらあった。
いくら数万の蟻が這い寄ろうとも、太陽の輪郭すら掠めることはない。
クリフィス中将の脳裏にも、それと同じ言葉が浮かんでいた。
(我らは蟻にすぎぬ。いかに連なろうと、あの存在に触れる術すらない……)
バハムートの金色の双眸には、もはや怒り以外の感情はなかった。その口元に、圧縮された黒炎の兆しが明滅する。
視線を向けられただけで、全身が鉛のように重くなる。足がすくみ、言葉が詰まる。指先さえ思うように動かない。
「……わ、われわれは、バハムートの……迎撃訓練の……」
口が勝手に動いた。意味も目的もわからない。ただ、声にしなければ崩れてしまいそうだった。
それが言い終わる前に、空間が軋んだ。
次の瞬間――バハムートの口から、咆哮が轟く。
音ではない。振動でもない。それは、空間そのものが揺れる“咆哮”だった。
対面していた巡航艦が、抵抗もできぬまま、その咆哮の直後に迫った一撃で粉砕される。
たった一振り――腕を振り下ろしただけで、艦が潰れた。
「なら――抗え」
その言葉は、最後の通告だった。
直後、背後で動き出した影。ヨルハが、牙を剥いて艦隊の後方へと突撃していた。
漆黒の巨体がまるで流星のごとく突き進み、一隻を体当たりで吹き飛ばす。顎門で機体の首を噛み千切り、鉤爪で装甲を引き裂く。標準戦艦クラスなど、障害にもならなかった。
第七艦隊は即座に反転し、応戦態勢へと移行――したはずだった。
だが、追いつかない。
情報処理が、砲塔の旋回が、機体の発艦も何もかもが、すべてが遅い。圧倒的な質量差と速度差に、あらゆる反応が置き去りにされていた。
すでに“敵”は、艦隊の内部にまで踏み込んでいる。対処も、迎撃も、意味を成さない。
それはもはや“戦闘”ではなかった。この宙域を揺るがす、ひとつの“災厄”だった。
――抗えぬ存在。理解すら許されぬ、終焉の象徴。
クリフィスの胸に残っていた、わずかな希望の火が音もなく潰えた。
(……もう、何も……残らん)
思考は止まりかけ、心拍だけが不規則に脈打つ。だが耳にはなお、あの咆哮が――怒りを秘めた神威の声が木霊していた。
ヨルハが再び動く。背後から、四肢を翻し、戦艦の背を跳躍しながら斬り裂き、咬み砕く。逃げ惑う船体に次々と爪が食い込み、爆発の連鎖が火花のように弾けていた。
同時に――バハムートが前へと歩を進める。
「抗え……抗え! 抗えと言っている!!」
金色の双眸が、怒りの焔に染まる。
「俺を侮辱したな! あの滑稽な紛い物を、俺の代わりだと!?」
その怒声は宇宙の底を震わせ、バハムートが前進するたび、周囲の戦艦が衝撃波に耐えきれず軋み、崩壊していく。
「――ふざけるなッ!」
腕を振るった、その一撃。
爆風が生まれたわけではない。だが確かに、衝撃が走った。
数隻の戦艦や発進した機体がまとめて押し潰され、光を放つ間もなく爆散した。残骸は焼けた鉄片となって宙を漂い、もはや“兵器”としての形さえ保っていなかった。
「お前たちは……何様のつもりだ!!」
次の瞬間、双翼が広がる。振るわれるその一撃とともに、空間がねじれた。
解き放たれたのは《レインフレア》――黒炎の閃光が幾筋にも分かれ、雨のごとく降り注ぐ。
逃げる暇もなく、艦艇が、構造艦が、哨戒機が、次々と光の中で消失していく。
まるで、存在そのものが焼き払われていくように。
背後では、ヨルハが容赦なく獣の牙を振るい、挟撃する。艦の側面を爆裂させ、骨のように歪んだ鉄骨を突き抜けていく。
そして目の前では――神そのものが、怒りのままに迫ってきていた。
クリフィスの口が、勝手に開いた。
「は……はは……はははははは……!」
笑うしかなかった。
敗北でも、絶望でもない。これは“終わり”だった。
「……終わりだ」
戦術も、思想も、存在すら――
すべては、“神を模した”その瞬間に終わっていたのだ。
だが、バハムートの怒りはまだ尽きていなかった。
「――そして、何よりもだ」
その声が宙域を貫く。
「俺の“紛い物”を使って、家族を脅かしたこと……これが、最も許しがたいッ!!」
その一言に、ヨルハが息を呑む。主の気配が変わった。次元が――空間が、怒りそのもので軋み始めていた。
何も言わず、即座にバハムートの後方へ飛び退く。その場にいることすら、危険だった。
バハムートの前方、虚空に黒き渦が巻き起こる。
光も引き寄せる闇のうねり。それはエネルギーの爆縮。宇宙そのものの“密度”を歪め、すべてを収束させる重圧。
渦が一点に集まり、小さな漆黒の玉が生まれる。微かに脈動を繰り返しながら、玉はバハムートの口元まで浮上していく。
虚無が凝縮された球体。その存在を“見ている”だけで、艦内のセンサーが次々と沈黙していった。
バハムートの口が、静かに名を告げる。
「――《メガフレア》」
その声は静謐で、恐ろしく澄んでいた。
次の瞬間――
黒き閃光が放たれた。
弾けるように、解き放たれる暗黒の奔流。光ではなかった。熱でも、粒子でもない。
それは、“存在を削り取る”力。
炸裂する衝撃も、熱も、音もなかった。ただ、空間が消えた。漆黒の奔流に呑まれ、フロティアン軍第七艦隊は――塵すら残さず、無に帰した。
クリフィスの名も、誇りも、野望も、あの旗艦の構造すら。すべてが、メガフレアの閃きの中で、痕跡を残すことなく消し飛んだ。
その場所には、何も残らなかった。ただ、空間にぽっかりと穿たれた“空白”だけが、神の怒りの証として静かに広がっていた。
……それを、ヨルハはただ静かに後方から見届けていた。主の怒りが、どれほど深く、どれほど静かに燃えていたのか。その深淵の一端に触れた彼女は――ただ、言葉もなく、頭を垂れた。