模倣への審判
バハムートは背にヨルハを乗せ、不干渉地域とフロティアン国境沿いの宙域を突き進んでいた。星々の光が流線形に伸び、背景が白銀の奔流のように歪む。光速を超える加速。その背は、ただひとつの“死”を運ぶためにある。
その背に伏せたヨルハは、風すらない空間で張りつめた鼓動を感じていた。
(バハムート様は……恐ろしい。私が本気で爪を立てても、この鱗は一切傷つかない。けれど、こんなにも大きな背中に身を預けられる。この存在の一部でいられる。私は……主に仕えることができて、幸せ者だ。群れのみんなも、私を誇りに思ってくれているだろうか)
誇らしくもあり、同時に身を縮めるほどの畏れもある。それが“真の主”に従うということだった。
だが次の瞬間――バハムートの双眸に鋭い怒気が宿る。
「……はぁ?」
低く漏れた声に、ヨルハがすぐさま顔を上げる。
「バハムート様、何か?」
バハムートは顔を僅かに傾け、睨むように前方を指す。
「あれを見ろ。……あんなもの、許せるか?」
ヨルハが視線を向ける。まだ遥か遠方、光をかすめた先に、確かに――“似たもの”がいた。
バハムートに似せた粗悪な偽物。その存在だけで、胸の奥に灼けるような怒りが湧き上がる。
「許すことは一切できません!」
声が震えるほどに、ヨルハは断言する。主を、嘲りの対象にするなど――決して許されることではない。
「だよな。……あんなの、冗談にもならん」
バハムートの威圧が空間そのものに満ちていく。
次の瞬間、口が開かれると同時に、漆黒の閃光が解き放たれた。
凄絶な《フレアブレス》。発射されたそれは軌道上の空間を削り取りながら進み、数秒のうちに模擬兵装体を飲み込み――
偽物は、音も残さず塵と化した。
「ヨルハ。後ろから襲え。ただし、俺の一撃のあとにだ」
「承知しました!」
ヨルハは即座に背から跳躍し、宙を駆ける。空気も重力もないはずの宇宙で、彼女の四肢は爆発的な加速で敵影の背後へと回り込んでいく。
背後に広がる主の咆哮――
次の瞬間――バハムートの巨体が、音すら残さず空間から消えるように移動した。
まるで視界から存在が抜け落ちたかのような静寂。だが直後、彼の金色の双眸が敵艦隊の最前――模擬バハムートを展開していた艦の真正面に浮かび上がった。
「――殺すか」
吐き捨てるように紡がれた、あまりにも静かなひと言。
けれどその声音が宇宙を揺らし、第七艦隊のすべての感覚系を“錯乱”と誤認させるほどの威圧となって叩きつけられた。
恐怖が、確かに存在を持ってそこにあった。偽物ではない、“本物”のバハムートが、今この宙域に現れたという事実が、艦内のすべてを圧倒的沈黙に塗りつぶす。
ブリッジ内。クリフィス中将は、硬直したまま指を動かせずにいた。
(……逃げるべきだ。だが……逃げたところで、運命は変わるか?)
脳内で警報のように回る問いが、思考を分断していく。
(生き延びる道は……どこにある? 交渉か、それとも……)
その時――
「背後に反応!正体不明の大型生命体が出現! ホエールウルフに類似していますが……明らかに別種です!」
観測士の叫びが、ブリッジを切り裂いた。背後の宙域に、もうひとつの巨影。バハムートウルフ・ヨルハの存在が第七艦隊を挟み込むように姿を現したのだった。
前も、後ろも塞がれた。第七艦隊の運命は――もはや決していた。
バハムートの眼差しが、今度は艦隊全体へと向けられる。双眸に宿るのは、純然たる怒り。そして口が僅かに開かれた瞬間――その喉奥から、黒き閃光が蠢き始める。
「――なんの真似だ?」
その声は低く、地を這うような響きだった。だが、ただの音のはずが、空間ごと圧し潰すほどの“威圧”を伴っていた。
「この俺を模すとは……死にたいらしいな」
重く、重く、吐き捨てられるように続く。
「……見るに耐えぬ。あれを“模倣”と呼ぶのさえ、穢れだ」
艦内の将兵が息を呑み、誰一人として動けない中――クリフィスは、震える指で外部量子スピーカーの操作パネルに手を伸ばす。最後の手段。交渉。あるいは、言葉による“命乞い”。
「こちらフロティアン軍第七艦隊司令……クリフィス中将である! お前に――!」
「……誰に向かって口をきいているのか、理解しているのか?」
その声が届いた瞬間、空間そのものが揺れたような錯覚が走った。
艦内に静寂が訪れる。誰もが動けず、誰もが声を失っていた。
モニターに映る金色の双眸――それは、生物でも兵器でもない、“理不尽”そのものを映していた。
空調の微かな駆動音すら、今は耳障りに感じるほど、緊張が満ちていた。ただ一言。たったそれだけの言葉で、艦隊全体が沈黙させられたのだ。
クリフィスの喉が乾き、唾を飲み込む音が、ブリッジに響いた。艦内の空気が変わる。機械も、兵も、もはやバハムートを“対話可能な相手”として見ていなかった。そこにいるのは、天災。あるいは――神そのものだった。
「……もう一度だけ聞く」
静かに、しかし雷鳴よりも重く。
「――死にたいのか? 俺の姿を模して、何をするつもりだった?」
バハムートの双眸が、獲物に視線を定める狩人のように、鋭く細められる。その問いに答えられない限り――この宙域に明日は来ない。