夜を裂く神の影
ヨルハが本来の姿に戻るのを見届けると、バハムートは静かに頷いた。
「よし。次は、俺だ。……少し離れていろ」
「はい!」
ヨルハは即座に後方へ跳び退く――が。
「……近い。もっと離れて」
「えっ、これでも……?」
戸惑いながらさらに距離を取る。
「……まだ近いが、まあいいか」
ぼそりと呟いた瞬間、空間がわずかに歪み始めた。
バハムートの身体が、みるみるうちに膨張する。その質量は天文単位を超えるかのような威圧を伴い、周囲の宙域そのものをたわめていく。
体表にあった擬似装甲が剥がれ、漆黒の鱗が一枚ずつ浮かび上がる。金属のように硬質で、なおかつ血のような深紅の筋が幾重にも走る――それは、生きていた。皮膚でも、装甲でもない。純然たる“生体”でありながら、あまりにも神々しく、異質だった。
両腕が砕けるように変質し、人間に似せた四肢から、獣の腕へと変化する。筋肉は束のように盛り上がり、節くれだった骨格が露わになり、その先には鋼鉄をも裂く爪が伸びる。
翼もまた、変わった。機械のような構造をしていたものが骨格へと戻り、巨大な蝙蝠のような形状へ。その翼膜には脈動する未知の文様が浮かび、ゆっくりと淡く明滅している。
尾は、すでに鞭のように長く、太く――わずかに揺れただけで、空間に微細な震えが走る。まるでそこにあるだけで、世界の均衡を狂わせるかのようだった。
そして現れたのは――
バハムート。
全長、数キロメートル。漆黒の鱗に包まれ、紅の血脈がほとばしり、蝙蝠のような翼が空を覆う。その双眸は、知性と虚無の狭間に沈み込んだ深淵であり、ただ静かに前だけを見据えていた。
神話でも怪物でもない。それは、“観測することすら過ち”とされる存在。
世界の終端からやってきた、真なるバハムートだった。
ヨルハは、その姿を見上げながら――理解した。
自分がどれほど“小さかった”かを。それはサイズの話ではない。存在そのものの話だった。
確かに、自分は進化を果たし、戦場で並ぶものも少なくなった。力を手に入れた。誇りも手に入れた。けれど――そのすべてが、今、無力に感じられる。
圧倒的だった。目の前にいるその存在は、“巨大”ではなく、“格”が違った。
宙に浮かぶバハムート本体。その一呼吸ごとに、宇宙の均衡がほんのわずかに揺らぐような錯覚さえ覚える。
――勝てない。
そう、確信を持って思った。彼に牙を向ける未来など、あり得ない。生まれ持った“種”の差ではない。存在の位階が、決定的に違うのだ。
だからこそ、彼女はこうして膝を折り、首を垂れる。畏れではない。ただ、尊敬と理解の深さが、自然にそうさせたのだった。
静かに頭を掲げていたバハムートが、ふいに顔を左右に巡らせる。
「……ヨルハ、どこだ?」
その声は、ただの声でしかないはずなのに。空間に響いた瞬間、振動のような重圧が走り、聞くだけで膝が折れそうになる。それほどに――“神威”と呼ぶにふさわしい、存在の声だった。
「ここです! ちょうど下の方におります!」
ヨルハは即座に答え、広大な宙域の下から金色の眼を細めて見上げた。その方向へ、バハムートの巨大な頭部がゆっくりと向けられる。
「……いたいた。アリバイは整った」
双眸が細められ、静かに言葉が続く。
「これからオンリーワンの横をかすめるように離脱する。姿を一瞬だけ晒す。それだけでいい」
「はい」
「その後、一気に速度を上げて――バカどもを塵にする」
口調はあくまで静かだった。だがそこには、絶対的な確信と、容赦のない力が込められていた。
「よし。俺の背に掴まれ。……爪を立ててもいい。とにかく、しっかりと離れるな」
ヨルハは即座に跳躍し、バハムートの背中へと舞い降りる。漆黒の鱗に前脚を深く食い込ませ、その身を支えた。
次の瞬間、空間の圧が変わる。この宇宙が、ただ一体の存在によって動かされようとしていた。
「破壊神ではないわね……」
オンリーは静かに、確信を持って言葉を紡ぐ。
「――救世主になってしまったわね、クロちゃん」
その横で、トバラがくすりと笑う。
「……相手にとっては、破壊神のままですな」
その一言に、オンリーは面白そうに喉を鳴らして笑った。
「ふふ、そうね。でも――それぞれが、どう捉えるかよ」
声には柔らかさと断言が同居していた。
「私たちにとっては、救世主。それで充分だわ」
そう結んだあと、オンリーは椅子の背に身を預け、ふっと息を整える。
ざわめき続ける管制室――誰もがまだ言葉を失っていた。
その中央で、オンリーはゆっくりと立ち上がり、穏やかに語りかける。
「大丈夫。ただ、通り過ぎただけよ」
その声には、不思議なほどの説得力があった。
「落ち着きなさい、皆さん。……何も、壊されていないわ」
そのひと言で、張りつめていた空気が少しずつ緩んでいく。恐怖の中に差し込まれた、わずかな安堵。
オンリーの言葉は、確かに“守られていた”という事実を――心に刻んでいた。